2007年5月23日号
ずぅーっと戦後でありたい。〜憲法9条をめぐる思い〜
国民の何割に当事者意識があるのかもよくわからない状況の中、教育3法案があれよあれよという間に衆議院を通過し次は憲法改正が論議されています。「きゃりあ・ぷれす」が読者にお伝えしたいメッセージを発行人 宮崎の文章でお届します。是非お読みください。
『きゃりあ・ぷれす』は、決して政治を扱うメディアではありません。私自身も、以前よりずっと政治に対して絶望感と倦怠感をもっていて、そんなことよりビジネスを通じて少しでもいい社会をつくることに微力ながら役立ちたいと考えるようになっています。マスメディアコントロールと企業によるTVコマーシャルの嵐、テレビゲームに代表される逃避商品の氾濫の中で、何かまともに考えたり、まじめなことや人と違うことを言ったりすることは、全く時代おくれのダサイことウザイことという空気感が上手に形成されています。そのまとわりつく空気を払い除けて何か言うことは、とてもエネルギーがいることになってしまっています。70年代初期くらいまであった多少なりともカッコイイという空気は全くゼロです。
にもかかわらず、カッコワルイこと、ウザッタイことを承知の上でこうして書こうとしているのは、今の状況を何もせずに成りゆきにまかせることは、今後10年20年、50年100年に禍根を残すと思えてならないからです。
先日友人の生まれたばかりの赤ちゃんに会いました。私たち大人は、この子供たちから社会を預かっているにすぎないのです。どうしようもないものにして返す訳にはいかないのです。
これから書こうとしていることは、私自身が感覚でとらえたことです。どっかの政治勢力の受け売りでは決してありません。感覚ですから必ずしも証拠や論拠がないものもあります。でも当たっていると思っています。
日本政府が憲法9条を変えるのにやっきになっている訳
日本政府、特に安倍内閣はなぜそんなに憲法9条を変えるのにやっきになっているのでしょう。日本国内で憲法9条を変えたいという要望は少なくとも市民レベルでは全く出ていません。(経済界では出ているようですが。)「国際貢献」とか「国際的要請」とかいう理由が持ち出されますが、アメリカ以外どこの国が日本の軍備拡張を望んでいるのでしょうか? とすると「国際」というのはアメリカのことなんですね。「アメリカ貢献」「アメリカ的要請」。
それであれば、よく理解できます。安倍晋三氏が、何か独自のポリシーをもっているとはどうしても思えません。アメリカの強い要請に一生懸命応えようとしているのなら、とてもよくわかります。目標を作ってもらうとそれに向かってすごく努力してしまうタイプだと思えるからです。
では、アメリカはなぜ日本に軍備拡張をしてほしいのでしょうか?もちろんイラクとか、アメリカが牛耳りたいところへの武力投入に使いたいということでしょうが、特にやってほしいのが北朝鮮に対する番犬の役割だと思います。
アメリカとしては、何の経済的利益にもつながらない北朝鮮なんか、本当はどうでもいいのです。大きな石油利権のある中東に精力を集中したいところですでも北朝鮮はアメリカにとってうるさい5月のハエのように、癪にさわるいろいろなことをやってきます。もちろん核もそうですが、一番厄介なのは偽ドルではないでしょうか。これは放っておけません。何の利益も生まなくても、ドルというアメリカの最大の基盤を脅かしかねないということになると、面倒でも何とかせざるを得ません。韓国が軍事政権である内はよかったのですが、民主化してしまった今はもう番犬としては使えません。そこで日本です。
同時に、日本の軍備拡張が中国、韓国、その他戦時に日本の被害を受けたアジア諸国との軋轢を増大することも、アメリカにとっては望むところです。中国と日本が組んでアジア経済圏など確立してしまったら、アメリカにとってはすごく厄介です。北朝鮮の偽ドル以上に厄介です。
憲法9条放棄による日本の軍備拡張は、このように2つの意味で、アメリカにとっては大変好都合な状況を生み出します。まさに一石二鳥です。そして、今できるだけ早いとこそうしてほしい理由もはっきりわかります。偽ドルやアジア経済圏の問題は、いますぐ手を打たなければならないことだからです。
拉致被害者家族は2度だまされている
このことはもしかしたら、マスメディア界でもタブーなのかもしれません。こうした視点での報道は、なぜか見たことがありません。それがとても不思議です。
拉致被害者とされる人々は、特に1977年から1978年の1年間に集中して、日本海側の町や村から失踪した若い男女で、認定されているだけで10人以上になっています。北朝鮮の工作船が拉致したといわれますが、そのようなことがなぜ簡単にできたのか不思議でなりません。9・11の時に、リアルタイムにその映像を見ていて感じた「何か変」という感覚と同じものを感じます。そんなに簡単に、そんなことが起こるの?という違和感です。
9・11の件でもささやかれているように、「知っていてやらせた」という感覚です。拉致が集中的に、そしてあまり周到とはいえないやり方で行なわれたにもかかわらず、当時の米軍や日本の公安が、北朝鮮との関連を察知できないほど幼稚であったとは、どうしても思えないのです。にもかかわらず、実際に危険にさらされている地域の人々に対して、(当時その地域近くに高校生として暮らしていた2人のパンゲアメンバーに聞いたところ)警告のひとつもまともに発せられていません。この事実は、何を意味しているのでしょうか。微妙な国際状況に配慮して、北朝鮮の仕業ということを明らかにしなくても、何らかの方法で住民に注意を喚起することはできたはずです。そうすればこんなに多くの人々が拉致されることはなっかたのではないでしょうか。なぜ、それすらしなかったのでしょうか。
私は、当時米軍が計画していた多くのプランのひとつとして北朝鮮「民主化」という名の派兵プランがあったのではないかと思います。その正統性を示す札のひとつとして北朝鮮の日本人大量拉致の事実が使えると考えたとしても不思議ではありません。実際、9・11はそのように使われました。9・11を理由にアフガニスタンを崩壊させ、さらにイラクにまで侵攻することができたのです。
しかし、おそらく前述のように「何の経済的利益にもつながらない北朝鮮」という理由やその他経済的、戦略的な観点から結局アメリカ政府内で北朝鮮派兵プランのプライオリティが高まることはなく、「日本人大量拉致の事実」という札も使われずじまいになったように思います。
そこで、今回の憲法9条放棄による日本の軍備拡張の気運を高めるための札としての利用です。
「拉致」の問題がクローズアップされた時、政府、特に安倍晋三氏が被害者家族会に肩入れしていることに、私はひどく違和感を感じました。安倍氏のキャラクターにそういう弱い立場の人と共に辛さを分かち合うというような要素が全く感じられなかったからです。何だか全然ミスマッチ、似合わない、という感覚です。さらに「何を今さら。知ってたくせに」という気持ちも大きくありました。百歩譲って故意でなかったとしても(故意であったなど口が裂けても言えることではありませんが)拉致被害を拡大させた責任は、はっきりと何の手立てもこうじなかった当時の政府にあります。そのような論調が少しでも出る前に、自分達の無策無為(あるいは故意)にさっさと煙幕を張って、すばやく同じ被害者として振る舞って見せたという印象が拭えません。その後は、北朝鮮憎むべしの気運の盛り上げ、ナショナリズム高揚に「北朝鮮の日本人大量拉致」の札を大いに活用していることはご承知の通りです。
このままでは北朝鮮方向の「みにくい国」になっていきそうな日本
私は決して北朝鮮は悪くない、北朝鮮の人々はそれなりに幸せだなどと思っている訳ではありません。でも、北朝鮮だけが悪で、アメリカや日本は善良だという単純な図式は当てはまらないと思うのです。
今のところ、こうして個人の見方や意見を言える状況なので、もちろん北朝鮮よりはずっとましです。けれども、このところの憲法9条放棄による日本の軍備拡張の流れを放っておくと、それさえ危なくなる、という危機感をもっています。
実際、今月14日に成立した国民投票法案には、当初メディアの言論規制の項目が含まれていました。さすがにそれは引っ込められたようですが、教育者に対する言論規制は盛り込まれてしまっています。日本は、どんどん北朝鮮方向の「みにくい国」になっていきそうで、大変危惧されます。
阿倍氏は「戦後レジームからの脱却」という言葉をよく発します。レジームとは政体、政権、制度などという意味です。もしそれを言うなら、まずは政権交代でしょう。超長期政権としての責任をまたしても煙にまいて、まずは憲法をというのはどう考えても順番が逆。なんとも強引で手前勝手な言い分です。
また、「アメリカに押しつけられた憲法だから変えたい」という言い分も、先に書いたことからすると何とも妙。「アメリカに押しつけられた憲法をアメリカの都合で変える」ということになります。
私の思い
●「戦前」になるくらいなら、ずっと「戦後」でありたい。
この世界、「戦前」と「戦後」しかない気がします。「戦後」とは、施政者、国民全体が戦争の醜さ、恐ろしさを心底感じ、自分が被った痛手と他者になしてしまった害悪を共に大変辛いものとして心に刻み込んみ、反省している状態をさします。「戦前」とは、それを忘れてしまった状態です。私は、ずっと「戦後」である日本を望みます。
●憲法9条は「戦後」の象徴であり、これを手放すことは「戦前」への道につながる。
●「アメリカがつくった憲法」であることを逆手に取る。
アメリカは何といっても強大で容赦のない表と裏の力をもっています。これに表立って逆らうことは難しいでしょう。であれば「アメリカが作った憲法」であることを逆手に取って、「それを大切にする」というスタンスで、今のアメリカの要求をかわすべきだと思います。
●今年7月の参院選で、憲法9条放棄の流れにはっきりNOの意志を私たちが示す。
これは国民投票と同じ意味をもち得ます。憲法改訂の国民投票まで持ち込ませずに、先に国民の意志を明確にするチャンスです。