きゃりあ・ぷれす

りーだーず・ぷれす
2000年9月20日号
<本の紹介をからめた21世紀3ヵ月前コラム>
〜時代は、やっぱり大きな節目を迎えているようです〜
前回の発行からまだ1週間と、ちょっと例外的な間隔でお届けする今回の特集は、発行人の宮崎がお届けする「21世紀3ヵ月前コラム」。21世紀をテーマにした3冊の本をご紹介しながら、目前に迫った新しい時代について考えます。
本の紹介をからめた21世紀3ヵ月前コラム
あっという間に、2000年も余すところ3ヵ月あまりにになってしまいました。
21世紀。もの心ついた頃から、わくわくする未来の代名詞であった新世紀が現実のものとして目前に迫っています。しかし、それは決して明るく胸はずむとは言いにくいものとして、です。
こういう時代において、おとなとして、(遠い未来はともかく)近い将来や日々の活動には十分わくわくできる環境の中で過ごせている自分自身はいいとして、次の世代を担う若い人々や子供たちは、どんなイメージで未来を想定すればいいのでしょう。未来のイメージがとても曖昧で、決して明るいとはどうも言えないのは、どうしてなのでしょう。
今、自分が子供であったら、今の自分よりもっと幸せだと、どうも思えないのです。もしかしたら近頃頻発している14才や17才の事件と同様のものをひき起こしかねない。実行しないまでも心情的には近いものを感じるに違いないとさえ思えます。
あまりに希望やビジョンが見い出しにくい。それは、単に世紀末にありがちな頽廃ムード、悲観論、終末的気分なのであって、ただ気分の循環の一部にすぎない、世紀が変われば気分も変わるサとは、どうも思えません。それは、この日本の不況を景気循環の一過程と脳天気を決めこんだ政府や官僚や御用エコノミストと同様に、事実を見ないようにしているにすぎないと思います。
来年が2001年だということと、前述の自分なりの漠とした違和感から、この夏休みに読もうと、4〜5冊の21世紀ものを購入しました。(実際は、遊びにかまけて、読書の時間を充分とることができなかったのですが。)
それらの著書に共通して流れる基本的認識(著者がはっきり意識しているかどうかは別として、私がそれぞれの文章から感じられるもの)は、今が、2000年来人間が求めてきた「ユートピア」だということです。
しかし、ユートピアは、現実のものになった時はもはやユートピアではないということは容易に理解できます。今がユートピアだとすると、私たちはユートピアを失ってしまったのです。そして新たなユートピアは見つけられません。もしかしたら、「ユートピア」という概念そのものが、永遠に失われたのかも知れません。
「ある観念が理想であり得るためには、それが実現されていないことが必要です。ユートピアはユートピアのままであり続けなくてはならないのです。そうすると現代消費社会では、知識人は民衆を導くようなある種の観念=アイディアの提供者にはもはやなり得ません。彼らは何も提供するものがないのです。」と『世紀末を語る』という著書の中で、フランスの社会学者 J.ボードリヤールは、自分達知識人がギブアップしていることさえ隠しません。
事実、「必要は発明の母」といった悠長なことは、もはやあり得ません。「必要」や「ビジョン」や「夢」より先に、発見や発明という事実が矢継ぎ早に突き付けられるのです。それも加速度を増しながら。
立花隆は『21世紀 知の挑戦』の中でこんな事実を伝えています。「エネルギー奴隷という考えがある。エネルギー消費を、それが人間何人分 のパワーに当たるかを換算するのである。<中略> 20世紀はじめのイギリスで1人当たり20人のエネルギー奴隷を使っており、1960年にはそれが81人になっていたという推定がある。イギリスのエネルギー消費は1960年と比較して、今1.3倍になっているから、エネルギー奴隷は105人に増えている勘定になる。1960年のアメリカでは、1人当たり奴隷1200人を使っているに等しいという換算もあるが、これも今では、エネルギー消費の伸びからいって、1.4倍になっていると推測される。」
だとすると日本人は、おおざっぱに言ってアメリカ人の半分のエネルギー消費量なので、今の私たちは、平均的に1人当たり840人のエネルギー奴隷を使う、昔で言えば貴族の生活に等しいかそれ以上の生活をしていると言えるということです。
立花氏は、イメージより先に事実が押しつけられることの苦痛について全く無視し、「児童等の意見『科学技術の功罪』」という調査結果をもとに 「(日本の)小学高学年は、科学は良いことより害をもたらし、世界を破壊し、世の中の困った問題をもたらす元凶だと思っているわけです。将来を担う子供たちが、こんなに科学にネガティブな気持ちを持っている国が将来、科学技術を発展させるような国になるわけがないでしょう。」と同著の中で嘆いています。小学生がそんな風に思っているとは知りませんでしたが、もしかしたら彼らの方が立花氏より感覚レベルでは成熟していると言えるかも知れないと思ってしまいます。
さて、ぐっと毛色の違うもう1冊。『21世紀企画書』は、橘川幸夫というマーケティング畑のちょっと風がわりなコンセプトマンが著した一見軽そうな本です。文体も軽く、独特の語り口調になっています。その外見や語り口とは裏腹に、中身は、結構深いことや貴重なことがちりばめられています。
橘川氏の最初の著書は、1981年に出された『企画書』という本で、実は19年前私はその本も買っています。その本は、今読んでも決してトンチンカンな感じはしません。これは、結構大変なことです。だいたいマーケティング本、トレンド本というのは、2年もたてばお払い箱と相場が決まっています。
それが、20年後でも、昔はこうだったなーというようなスタンスでなく、思わずもう一度読み返してしまうような内容だということは、それだけコンセプトマンとして優れた予見をしていたということでしょう。
さて、21世紀の方の企画書ですが、いきなり「インターネットは海だ」という話から始まります。「20世紀というのは『川の時代』だった。源流に発生した湧き水が大地を駆けめぐり、無限の広がりを感じさせる大海を目指した。故郷である海に、一刻も早く到着するために、水流は懸命に疾駆したわけです。産業構造も個人のアイデンティティも、みんな『川の思想』だった。<中略> しかし、すでに僕らは、インターネットという海に到達してしまった。<中略> 海では、最初からすべてが共有され、つながっているんです。あとは、異質な領域から流れてきた水流の自然な融合しかない。海には、スタートもゴールもない。競争も、戯れの遊びでしかないんです。川の思想 が男性原理だとしたら、海の思想は女性原理なのかもしれません。僕たちが、これから生きようとする21世紀は、そんな世界なんです。」
この本のセールストークには、「インターネットビジネスで成功するためのヒントがこの1冊に凝縮されている」と書かれてありますが、おそらくこれを読んでも、インターネットビジネスには役立たないでしょう。なぜなら、もともとインターネット的発想ができない人には、この本の言わんとすることが理解できないと思うからです。それよりも、今の状況やインターネットの可能性を整理し、確認するのには、大変役に立ちます。決して明確な希望が持てると言えない今、ちょっと元気が出る本であることに間違いありません。それも気やすめでなく。
まだまだ気になる21世紀ものの本もあります。次の機会に、もう少し頭を整理してご紹介できればと考えています。


『J. ボードリヤール×吉本隆明 世紀末を語る 〜あるいは消費社会の行方について』
構成・訳 塚原史
紀伊国屋書店(1995年6月)1400円(税込)

『21世紀 知の挑戦』
立花隆著
文芸春秋(2000年7月)1429円(税別)

『21世紀企画書』
橘川幸夫著
晶文社(2000年5月)1500円(税別)