今回「天職を探せ」にご登場いただくのは、行政書士・経営コンサルタントであり、NPO法人「ライフ・ワーク・アンド・コミュニティ(LWAC)」を立ち上げられた水津陽子さんです。
彼女とは、以前このシリーズで登場していただいた「ワーク/ライフ・バランス」の提唱者パクさんを通じて初めてお会いしました。その後しばらく間をおいて、昨年LWACの活動として制作されているケーブルTVの番組の取材にいらしたのを機に、「きゃりあ・ぷれす」への登場をお願いしたのでした。
彼女の活動が「きゃりあ・ぷれす」と重なるところがありそうだと感じたからです。
私が水津さんの仕事ぶりや活動内容を聞いたとき、彼女は「天職」と感じて活動されているにちがいないと思いました。
でも水津さんは、「仕事は私にとってファーストプライオリティじゃない」と言います。「私にとってのファーストプライオリティは、自分が何ものにも侵されず、無条件で受け入れられて、幸せだと感じること」だと言います。そういう自分でいるために彼女は日々生活している。それがたまたま外から見るとバリバリ仕事をしているいように見えるというだけのようです。
でも、私に言わせれば、そういう状態こそが生活と仕事(活動)の価値観が一致している「天職」の姿そのものです。
という訳で、私の勝手なカテゴライズながら、この「天職を探せ」シリーズにいれさせてもらいました。
島根の高校を卒業してからの紆余曲折に、私たちが仕事や人生を考えるうえでの貴重なヒントがあるような気がします。水津さんだから言える厳しい意見やちょっとした逆説を含め、参考にしていただければ幸いです。
宮崎郁子
【プロフィール】==========================
水津陽子さん
1961年島根県松江市生まれ。島根県立浜田高校卒業後、石油元売会社、官公署嘱託職、税務会計事務所を経て、1998年行政書士・経営コンサルタントとして独立。開業当初、業務の7割は財務など経営改善や起業、地域活性化のコンサルティング、行政書士業務は開業以来3割程度。世紀が変わり、変革が求められる今、「人と地域を元気にする」をコンセプトに、「都市と地方の新しいネットワークコミュニティ」と「企業」「人」を融合、相互共存できる社会のフレームワークと企画提案を核としている。2003年は、「日本ワンダーランド計画」「自分時間」が主力提案事業となる。
●“根拠のない自信(=確信と天命という感じ)”で起業
現在、企業等へキャリア設計・ライフサポートの提案をさせていただいています。もっとも私が提案しているのは、何かを構築していくというよりは、オーバーホールして原点に戻りましょう、そのお手伝いをしますよ、というもので、一般的なプランニングやマニュアルの仕事とは違うのですが。
仕事としてはそういうことに携わっていながら、実は私、自分のことでは明確なビジョンを持ったり、キャリア設計したことなんて一度もないんですね。起業するときも事業計画なんて全く立てませんでした。もちろん体一つで収入の当てがあれば良い業種だったからでもありますが、やはり紺屋の白袴ってやつですね。
私は物事を決めるまでは、つめ碁ではないですが、なんとなく頭の中でグランドデザインみたいなものを描いていて、それがある日、手ごたえというか、ピタっとはまった感じがする。そこから後は何も考えずに、なりゆきにまかせて一気です。ちょっと博打うちみたいですが、手持ちのカードに切り札の1枚が残っているうちは、どれほど負けが込んでも、結構平気だったりするんです。
それに第六感っていうんでしょうか、上手くいくときは、必ず根拠のない自信みたいなのがあります。こんなふうに思うのは、ずっと私がいい加減な人間だからじゃないかと思っていましたが、意外に起業家として名を為した方から同じ言葉を聞いて、「そうか、やっぱりそうよね」と思ったりしました。あ、でも私が成功しているってことではないですよ。ただ、根拠のない自信って、やっぱり必要なんだと思うんですね。……っていうか、それがなかったらやってはいけない気がする。
つまり、根拠のない自信には実は確信がある。したいと思う事業の将来性、新規性、独自性、その事業の正しさ、必要とされているというミッションにも似た気持ち、これをやらなくて何をするんだ、私はこれをするためにここにいるんだというような、もうほとんど天命としてそれを感じるというか。そこまでの信念があれば、苦しくても理解されなくても少々のことではへこたれないし、途中で諦めるような半端なこともしない。そういう信念がない事業はやっぱりダメだと思うんですね。
よく自己実現とか言って、会社をやめて起業したいという人の中には、会社では私は理解されない、やりたいことができない、だから起業したいという人がいますが、会社でできない人は独立したら更にできないんじゃないですかね。逃げ道として起業すると、かなり痛い目にあいます。会社での課題解決ができないのに、いわんや社会で、厳しいビジネスの世界でどう生き抜いていくの? って。それはもう、ぜんざいにあんみつをかけて食べるくらい、甘い。
●私にとってのファーストプライオリティ
そんなこと言うと、まるで私が仕事に命をかけているように思う人がいるかもしれないので断っておきたいのですが、私にとって、仕事はファーストプライオリティではありません。正直、仕事がファーストプライオリティになるなんて、ツールが目的化してしまっている悪い例ではないかと思います。今、自己実現とか、自分探しをしている人が大勢いるのですが、「あなたの幸せはどこに機軸があるの?」と逆に聞きたいくらいなんです。私の基準は、人に評価されることではなく自分が納得して楽しいということです。
私にとってのファーストプライオリティは、自分が何にも侵されず、無条件に受け入れられて幸せだと感じる瞬間のことで、仕事をすることでも、それで誰かに評価されることでもない。誰も評価してくれなくても、それをやってて自分が楽しかったらそれでいいし、実は食べていければ仕事なんて何でもいいとも思っています。仕事がファーストプライオリティだなんて、なんだか寂しい人生じゃないですか? それに実際自分が生きているうちに評価は出ないかもしれない。評価なんてそんなものです。そんなものに左右されるよりは、自分の中の真実に忠実である方が私はいいと思う。
でも、宮崎さんが私の今していることを見て、「これがファーストプライオリティじゃないって言われても納得しにくいよねぇ」って言うので、言わせてもらうと(笑)、たぶん今やっている仕事のほとんどは、私がやりたいことなんだろうって思うんですね。まあ、あまり好きでない行政書士のルーチンワークなんて、相当退屈で神経使うので性に合わないものではありますが、それ以外は、実はやっているときは相当楽しい。だって、自分がやりたいと思ったことを提案して、必要だと思った方が求めてくださって、そして物事が動き出す。つまり、変わろうとしてアクションする人がいる。私は何かが変わっていくのが大好きなんです。っていうか、実際に変わるところまでいかなくても、変わろうとしていることで既に目的は達していると思う。目標達成と目的は違いますからね。
特にプランと構築作業は最高に楽しくて、ものすごい量のアドレナリンが体に噴出しているのが自分でも分かるときがあります。何かを実現しようとチャレンジすること、チャレンジしようとしている人のお手伝いをしたい。その人と一緒に作っているその時が一番好きで、結果よりはそのプロセスを楽しむことに喜びを見出します。だけど、やっぱり、そういうエキサイティングなことは、OL時代にはないことですよねぇ。でないと、1年365日ほとんど仕事なんてできないですもんね。それだけ働いてもまだ時間が足りないって感じは、決まった給料をもらってやるときには、やっぱりできないですもん。
●転機─島根から東京へ
私は仕事と男どっちを取るかと聞かれたら、もう絶対男です。もっとも、そう言いきれる男は過去に一人しかいないし、たぶん、この先もいないと思っていますが。
私がその人に出会ったのは28歳のとき。人の人生は最初が辛く後が楽なパターンと、最初が良くて晩年が辛いパターンと結構いろいろありますが、私の場合は28までは結構辛い時期でした。幸不幸ではなく、いろいろあって、気がつくと多くのことに対して自分が傷つかないように、関わりを持たないよう、悟りでも開いたみたいに感情を出さなくなっていて、自分でも10歳くらいでそういう領域に到達したような気でいました。
でも、ずっと何とも関わらないで済むなんて、無人島に行く以外ないわけで、ある日生身の自分が引きづり出された。「神様もういいので、私の時計を止めてください」ってずっと思っていました。自分の弱さや醜さを受け入れることは結構きついですよね。自分自身が清廉潔白でもなく、強くもないと認めることは、自分の全てを否定するような感じがあります。不覚にもそこに落ちて、のたうち回って、長い長いトンネルの中からなかなか抜け出すことができなかった。でも抜け出せたとき、すがすがしくて、本当に思ったんです。「ああ、空って本当にこんなに青いのね」って。精神的な圧迫って、やっぱりすごい重圧なんだなと思います。誰もが一度はぶち当たるんだろうと思いますが。
だから、その男性と出会ったとき、ただ存在がそこにあるだけで、自分が完全な安心感を得ていることに、単純に好きとか何かというレベルではなく、非常に深い思いがありました。28歳のある日、初めて生んでもらったことを親に感謝しました。そして、それまで全てのこと、人から後ろ指をさされることも含めて、自分の存在を肯定することができました。
それで結婚の話になるんですが、占いみたいなものの結果を理由に相手の親に反対されたんですね。この人とは一緒になっても上手くいきませんって結果がでたらしく、結局その反対を押し切ることはできなくて、別れることになるんです。でも、何ていうか、悲しいというよりは、呆れるというか可哀想というか。だって、その占いがよしんば当たっていたとしても、そんなもんに自分の人生左右されて、あんた馬鹿じゃないの、っていう気持ちもあったんですね。だって、ほんとに馬鹿げているでしょ。
でも、実は私は、もともと親が早くに離婚したこともあってて、結婚なんて絶対したくないと思っていたし、相当おじけづいていたんです。
その人のことは好きだけど、「できたら結婚しないで済んだらなー」とか「うわぁ、相手の親とか親戚とか付き合うのがめんどくせーなー」とか思っていたので、ある意味占いは正しいよなーと思っているんですが。
それで、その事件?をきっかけに私は上京することになるんです。実際に、私の人生の中で、もっともっと辛い出来事は他にも3つくらいは簡単に思い浮かぶのですが、何故かその時の辛さはそれらとは比べられなかった。
そのせいか、逆に非常に冷静だったんですね。だって、人生で一番落ち込んでいる日に、役所で前の同僚の男の子に偶然会ったら「水津さんはいつも能天気でいいですね」って言われたんですよ。「あんたねぇ、あたしゃ今死にたいくらいなのよ」って言ったら、「またまた、ご冗談を」とか言われ、なんてこったいって力なく笑ってしまいました。信じられます? 全くねぇ。
それで、別れたその日から、一日でも早く立ち直ろうとしていました。東京に来たのは、とにかく気晴らししようと思って。弟がいたので1カ月くらい居候する気だったんです。でも、来たらあまりに楽だったので、2日目には実家に電話して「もう帰らないから」と言ったんです。そこからもう11年になりますね。
●アルバイト生活から税理士事務所を経て、独立へ
上京して最初の1年は、別にどうしようかは考えていなかったので、派遣や配膳とかのいろいろなアルバイトをしていました。丁度バブルがはじけて景気が悪くなり始めた頃で、すでに31歳になっていたので、バイト探しは結構大変でした。派遣といっても当時はパソコンができなかったので、派遣会社で研修を受けても短期の仕事はあまりなく、すごく苦手な職種であるウエイトレスもたまにしました。
一番大変だった職場は帝国ホテルの中にあるNという懐石料理の店です。配膳の仕事で、つまり着物を来たウエイトレスなんですが、ここで生まれて初めてお局様というものに出会いました。ドラマだけの世界だと思っていましたが「本当にいるんだ~」と妙に感心したりして。どうも私は動きがとろいらしく、そのお局様に目をつけられて、よく睨まれていました。
で、そろそろこんなことをしていないできちんとしようと思い、ようやくちゃんとした就職を考え始めました。ただし、普通の事務職だと募集の年齢制限が28歳位になっていることと、給与が安いので家賃を払って食べていけないということで、割と待遇もよく、年齢制限も35歳位と幅のある経理職に就くため、まずは簿記の資格をとることにました。試験は10月くらいだったかと思いますが、2ヶ月間くらいバイトをしながら勉強しました。
その頃はローテーションで、4日のうち2日半働くという感じ。そういうとラクそうですが、実際はとってもきつかったです。ウエイトレスの仕事は苦手、お局様はいる、また店が地下にあるので、一日中太陽を見ない日もあり、生理が止まったくらいです。
結局そこは2ヶ月間働いて辞めました。でも辞めた理由は生理が止まったからではなくて、タイに旅行に行くことになったから。旅行のために8日間休みたいと言ったら断られたので「私をタイに行かせない気ね」と、旅行に行く前の日に辞めてタイに行きました。ちなみに、タイはとっても楽しかったです。
その年に無事、簿記の試験に合格して、そのまま税理士事務所に就職しました。そこには足掛け5年いましたが、4年目の夏少し前、前述の彼が事故で死んだという知らせがありました。30代半ばでも、人って死んだりするんだなと思いました。
その夏は、予定していたイタリア旅行に行きました。11日間、今でも語り草になっているくらい、かなり楽しい旅でしたが、その旅行で重いスーツケースを持ち歩いたせいか、腰を悪くして、その年の年末ボーナスの次の日に、ロフトの上で動けなくなり、救急車で病院に運ばれました。結局3週間入院するんですが、そのうちの10日は食べては寝る、食べてないときは寝る、というくらい寝ていました。
そして、少し痛みも引いて、寝る時間のうち、少しは考える時間に移行する2週間くらいになると、ベッドの中でいろいろと考えました。そこで、死とか、存在の消滅、自分が生きている意味などについて、ちょっと考えました。身近で誰一人死んだことがなかったので、死というものに対して実感はなかなかありませんでした。今でもないですが。でも、なんていうか、ぼんやりとこのまま生きていくのか、何かをして生きていくのかは考えました。そこでの答えは、とりあえず、この生活を変えようということでした。
腰が完治するのに4月くらいまでかかりましたが、痛みもなくなった頃、雑誌で一番簡単に自分が取れそうな資格として行政書士を見つけました。行政書士の資格を取ろうと思ったのは、あくまで転職のためですが、その年の試験に合格すると、いろいろな状況が独立へ向いていました。もう、全てがそうなるように動いていくのです。でも、いろいろなきっかけと流れはたぶん偶然ではないと思います。そこからずっと大した努力もなく、ただラッキーなだけでここにいるような気もします。いろいろな出会いも、仕事も自分が努力したというよりはめぐり合ったという気がします。
でも、キャリアということでは、これから先は、もう生半可なことでは食っていけない時代になったなと思います。それで、昨年はやはり自分でも突き詰めて考えてみました。ある方が、「タイムマネージメントは、つまりライフマネジメントよ、水津さん」って言ってくださったんです。「まさに!」で、本当に意味のあることに時間を使おうと思いました。いつも思いついてはいろいろなことをやりたくなるのですが、それで自分の首を締めたり、完成度が低かったりします。無駄な会合や、義理で所属している団体なども全て整理して、自分の時間配分、優先順位を考えました。「いろいろやりたい。でも、とにかく一番はどれか」「どれをやることが自分の満足度が高くなるのか」で判断しました。
仕事に明確なビジョンというか、自分なりの「商品」を見出すところへ、ここにきて、やっときたという感じがしています。おかしな話ですが、自分は結局何がやりたいんだろうということが、ようやく明確なフォルムになってきた。また、時代もそれを求めている。そのうねりを感じます。
●なりわいとしての仕事の紹介
私の仕事をひとことで言うと、“「人」と「地域」を元気にする”こと。この二つは、ひどく離れているテーマに思えるかもしれないのですが、実はがっぷり四つに組合っているメニューなんです。
たぶん、これまではテーマも大きかったし、なかなか実現には至らなかった。でも、やっと時代が動く時とぶつかったんだと思います。手ごたえというか、機運というか(以前、宮崎さんもおっしゃっていましたが、何かが変わろうとしていること)、変化の胎動は強く感じます。でも、そこにはなんらかの作用、梃子のようなきっかけを作るものは必要で、私の仕事は、多分その産婆さんのような役割りをしているのだと思います。
実は最近ひそかに「脱コンサルタント」宣言をしているんです。誰かがやるのを外から助けるところから、もう一歩踏み込んで、自分も一緒に創る人になりたいという感じでしょうか。よく「コンサルタント自身がそれをやるのは禁じ手だよ」と言われますが、だったらコンサルタントじゃなくていいと思ったんです。私は自分のやりたいことをやる。社会が転換するのを見て死ぬんだと。
私はフレームワークが好きなんだと思います。そして、プレイヤーにとって一番いいコンディションを作ったりすることが楽しい。昔から、裏方好きだったので、そうして活躍したり、元気になる人や地域が出てくるのを見て喜ぶ。自分が楽しく生きるためには、自分の周りもはっぴいでなくては!!これは幸福の法則における鉄則、絶対の条件だと私は思っています。
その基本にあるのが、「自分時間」「自分軸」という自社オリジナルのプログラムで、今、そのサポートツールとして「キャリア設計・ライフサポート」の生涯ツールを開発中です。また、それにあわせた「森の職人」「自分時間の旅」などの地方と都市コミュニティを結んだ支援メニューも同時に発表予定です。
自分の中の基準、幸福の原点さえ今はわからなくなっている人が多いような気がします。このツールは、マニュアルに倣う文化から離れ、もともと自分が持っていた、自分で考え判断できる「自分」というものを、プラクティスやゲームを楽しみつつ取り戻すことができるものにしたいと思っています。
また、それにあわせて、「無料のビジネスプラン講座」を開設しました。コンセプトは「10の計画より、1つのアクション」で、アクションを起こす人だけに有効なビジネスプランニング講座になっています。これまで起業講座の講師も多数してきましたが、サイトをオープンにする理由は「チャレンジする人」を増殖させるためです。
「森の職人」事業では、20名程度の地域のコーディネ-ターを育成して、「森の職人講座」を首都圏で5カ所開設予定です。スモールオフィスといいますが、これは開業資金も運転資金も不要で、地域コミュニティや仲間作りをしながら、儲けるというよりは、楽しみ且つ少しおこづかいを稼ぐ程度のスモールビジネスを生むことが目的です。自分の場所があり、仲間がいて、いきいきして暮らせる地域が沢山増えること。そういうコミュニティを具体的な支援メニューで実現していけたら、という事業です。
●NPO立ち上げの経緯と志、今行っていること
NPO活動を始めたのは、1999年です。それまで、産業振興関係の会議によく委員として出席して意見を述べていたのですが、意見を言っても実現しない、いい案だけど予算がない、人がいないというわけです。だったら、自分でやってやる。できない言い訳は聞き飽きました。予算がないからできないというのはエクスキューズで、本当にする気があれば、できるということを示したかったんでしょうね。そこから自分の首を締める日々が始まりました。
まずやったことは、住んでいる街の情報がないので、地域ポータルサイトと情報誌、絵地図などを仲間と自主制作しました。でも、仲良しクラブみたいなものだと、どうしても責任感がないし、華やかなイベントのときは大勢来てくれるけど、下準備の時の人手はなく、責任者にばかり負担がかかり、苦労が多い割には活動に広がりが見られない、マネジメントが効かない。きちんとした事業をするためには絶対に法人化が必要だと思いました。
日本のNPO、市民活動に多いパターンですが、活動は代表者の力量と一部の活動員の犠牲の上になりたっている場合が多い。でも、NPOは1人が100万円で支えるものより、1人1万円出して100人で支える方がいい。私たちは、近代化の中である意味、自ら「自治権」を放棄してきたようなところがあります。社会にコミットしない、責任をもたない時代が長いこと続いてきました。そして、この不況、疲弊した社会システムです。でも、この不況は、実は、私たちがあるべき地点に戻っていくための「良い揺さぶり」「揺り戻し」の作用があるのではないでしょうか。
その求心力として、場としてNPOが有効に働けば、私は良い作用を起こして社会を少し良い方向に動かしていくことができるのではと思っています。
6月に法人化を果たし、特定非営利活動法人ライフ・ワーク・アンド・コミュニティ(LWAC)が発足しました。2002年は法人化により、事業もそれまでのお気楽さから、本格始動への移行の年でした。
2003年は、1年目の助走期間を終え、本格的なアクションのフェーズへ入るところに来ています。コンセプトは「波動共鳴」。「良い揺さぶり」が本格的な「ムーブメント」へ移行するためには、この「波動共鳴」が必要だと考えています。日本の市民活動は時として非常にクローズになりがちです。しかし、「波動共鳴」するためには、各団体が互いを尊重しつつ、違いさえも受け入れて、その上で信頼の上にゆるやかな連携、連合体を形成し、その最大公約数のスケールメリットを相互に共有し、作用しあうことが必要です。そうすることによって、一つのムーブメント「うねり」のようなものが起こ
せると思うのです。
共鳴できる他の活動家、団体、行政や機関などと幅広く連携し、より多くの市民の方に参加していただける「エントランス」を開いていく役割を果たせればと考えています。
たとえば、「LWAC」であったり、「きゃりあ・ぷれす」であったり、互いに信頼できるコミュニティ同士がゆるやかに連携したり、協力したり、信頼の大きな輪をつくり、そこに「一個人」の声が反映できるしくみを創ることができれば、その小さな声を社会に向けて発信し、市民がよりスムーズに≪社会≫にコミットし、ゆるやかな都市型のコミュニティを楽しむことが可能になると思うのです。
●CATV、ブロードバンドを活用したパブリックアクセス番組の制作
~市民メディアの台頭
現在、「LWAC」はCATVにおいて、市民が制作し発信する「パブリックアクセス番組」を企画制作し放送しています。(4月以降はWeb上でも配信できるよう準備中です)まず、4月から始まる新番組「ハタラクチカラ」では、年間テーマを「仕事
/雇用/職業」として、月ごとに個別のテーマを設けています。ちなみに4月は「職業選択」で、コーナーとしては「オピニオンサルベージ」「インタビュー」「ハタラクチカラ解体新書」「経済・マネーから見た仕事」などです。また、「ライフ・イズ・ビューティフル」ではロングのキャリアインタビューや五感生活、心のふるさと情報、家計簿・お小遣い帳チェックなどの情報をお届けする予定です。