きゃりあ・ぷれす

天職を探せ
様々に悩み、考え、挑戦して、
今『天職』と言えるものを見つけてがんばっている人、
見つけつつある人と発行人宮崎との対談。
天職を見つけた結果よりもそこに至る思考の変遷や
キャリアの蓄積などの経緯にスポットを当てています。
それが、今、様々に悩んだり迷ったりしている方に
少しでも役立てば幸いです。
第4回 佐久間京子さん  社会的責任投資のための企業アナリスト
働き方のこれから
儲けながら良いことをする=SRI

大企業の不祥事が後を絶たないニッポン。そんな中、欧米では環境対策や雇 用、社会貢献などに積極的に取り組む企業に投資する「社会的責任投資」(SRI)が定着し、企業文化が着実に変わっています。SRIは短期的な業績だけではなく、社内の人材育成や社外への貢献度などの面から企業を総合的に評価し、一定基準を満たした企業に投資するものですが、その際実際に企業を調査・評価するベルギーの非営利機関でアナリストとして活躍しているのが佐久間さんです。今回は、佐久間さんから今のお仕事にたどり着くまでの長い道のりや、現在計画している「女性ファンド」のことなどを、発行人の宮崎とコラボレーションスタッフの宮田&木村が聞きました。その半生は、どんなスポ根もの漫画も真っ青になるような努力と精神力、そしてお金の流れを変えることでこれまでの経済や社会のあり方を変えたいという壮大な使命感に彩られています。(木村)

※SRIの仕組みや世界的な現状に関しては、「きゃりあ・ぷれす」のニュースサイト「poco a poco~オルタナティブ・ワールドを探しに~」に詳しく載っています。

エティベルの企業評価は、【1】経済性・成長性方針(収益、株主対応・法令遵守など)【2】社内方針(人事戦略、労働環境など)【3】環境方針(環境管理制度、製造過程・商品の環境負荷など)【4】社外貢献方針(企業活動の社会的影響、地域等への社会貢献活動など)という4つの要素に関して企業を調査した上で、全要素を均等に評価する仕組みを取っています。佐久間さんは現在、日本企業100社弱の調査を担当するとともに、女性が働きやすい環境を整えて女性を積極的に登用し、性別に関係なく従業員を「個」として見ている企業に集中的に投資できる(日本初の)女性ファンドを、日本の非営利団体と共同で創設しようと奔走しています。                (コラボレーション編集スタッフ・木村)

──(木村) ベルギーでどのようなキャリアを積んで今のお仕事にたどりつ いたかというお話は以前に少しうかがいましたが、日本にいた頃は学校も含めてどんな生活を送っていたんですか。

佐久間  日本にいたのは高校までで、学校は非常に厳しいカトリック系の一貫校でした。(ここで、編集長の宮崎と同じ系列高校だったことが判明して、2人はビックリ!)小さいころからある程度恵まれた家庭にいたと思っています。金銭的ということではく、両親がちゃんといてというか、教育ママではありましたが…。ただ、私の人生って自分が作っていないものだと、ティーンエイジャーの頃からずっと思っていたんです。大学の推薦も決まっていたし、祖母からは「医者か弁護士かとお見合いをして…」といったようなことを小さい頃から聞かされていたんですが、何となく「私の人生って何なの」とずっと思っていました。
日本では通っていた教会の周りの方々から、国連や赤十字の活動がいかに素晴らしいかということを聞いていました。考えてみればこれも留学のきっかけの一つだったかもしれません。高校留学をしたいと言った時、両親はすごく反対して「高校まではちゃんと出なさい。けじめをつけないとだめだ」と言われました。私はそれを受け入れたんですが、高校2、3年の時の大変さは今でも覚えています。米国の大学に合格するためにはSAT(学科試験)やTOEFL(英語試験)で高得点を取らないといけません。学校の成績もトップ5に入っていないといけないということで、狂ったように勉強しましたね。両親は合格するまであまり助けてくれませんでしたので、近所のアメリカンスクールの先生に推薦状を書いてもらうといったことを全部自分で開拓してやりました。
そして、マサチューセッツ州のクラーク大学というところに無事留学しました。でも帰国子女でもないし、急に厳しい米国の大学に入って大変でしたが、異なる文化や宗教に触れられた。ルームメイトがバングラデシュ人のイスラム教徒だったんですが、部屋に帰ると「何だ、この匂いは」ということで、いきなり真っ暗な中でろうそくがいっぱい灯してあったり…(笑)でも、おかげでバングラ料理は得意です!私は生まれてからキリスト教徒なので、仏教のことをよく知りませんでした。でも、彼女はイスラム教徒なのに仏教に改宗したいというぐらいすごく詳しかったです。大学時代の友人はヨーロッパ人かアジア人で、なぜかアメリカの友人はいませんでしたね。日本人の仲間がほとんどいなかったことも良かったです。
でも4年生になった時、「それほど名前も知られていない大学を出て、この後どうするんだ」と思いました。そして、もうこの道でずっと行って修士も博士も取るしかないと考えたわけです。そこで、今度はワシントンD.Cのジョージタウン大学に入り、公共政策を専攻しました。学部の時は国際政治と国際開発の専攻でしたが。

── 高校の頃から、国際政治や国際開発に興味があったんですか?

佐久間 はい、実はTOEFLの点数を上げるために学校以外で英語を習っていたんですが、そこのイギリス人の先生からすごく影響を受けました。先生は自立するということを常に私に言ってくれて、先生との会話の中で「自分を考えることで自分の居る社会を考える」ということを学びました。そうした中で、きっと日本の社会ってどういうものなんだろうということに興味が行ったんでしょうね。例えば、日本では川端康成や三島由紀夫をなぜ社会科の時間で読まないのかなとか考えましたね。

◆ヨーロッパと現在の夫との出会い、そして日本へ…

佐久間 大学院では、また狂ったように勉強しました。友人がヨーロッパ人だったということもあったせいか、興味の焦点がヨーロッパに向かっていました。そこで、サマーコースとしてベルギーのアントワープ大学で欧州連合(EU)について学び、「やっぱりヨーロッパに行きたい」という気持ちを強くしました。実は大学2年生の時、交換留学制度を使ってロンドン大学経済学部(LSE)に6ヶ月間行きました。その際、欧州議会議員のアシスタントとなることで単位を取りました。当時私は20歳でしたが、その英国の労働党議員とは今でも良い関係が続いています。この時、私は議員が書いていたリポート(日本と欧州が貿易摩擦を乗り越えて管理された貿易圏のような形のパートナーシップをどう構築していくのか-ということをテーマとしている)のために、日本政府関係者から意見を聞いて反映させるという仕事を与えられました。で、そのリポートがこのテーマに関して欧州議会で出されていた保守系議員からの案の修正案として提出されたんです。
やっていた当時は分からなかったんですが、後々「すごいことをやったんだな」と思うと同時に、この結果を誰かに見て欲しいと思いました。そこで、今にして思うと何故か分からないんですが、EU委員会の東京事務所に結果を送ったんです。意見を聞きたいと思っただけだったんですが、当時のナンバー2からは「面白いことが書いてあるから会いに来なさい」と。そして、当時の対日EU大使が私をEUの研修生として推薦すると言って下さいました。私は絶対ヨーロッパに行きたかったので、このお話を受けてベルギーに行きました。

── 念願かなってヨーロッパに行って、その後どうなさったんですか?

佐久間 修士論文が中途半端だったので、一度アメリカに帰ろうと思っていました。でも仕事は面白かったし、それにこれが人生の転機なんでしょうね、そこで、EU委員会のスタッフでもある今の主人に出会ったんですよ。これで、人生が180度転換しました。ここから、いかにアメリカに帰らないように契約を伸ばすか、ということになりました。その頃は、昼間仕事をして夜は論文を書くという気が狂う生活をしてました。最近腰が痛むんですけど、自分の人生を振り返ると痛くもなるはずだと思います。もう、むちゃくちゃやってましたからね。(笑)週末もなくて、とにかく詰めて詰めて何でもやるんですね。でも、全部やりたいからしょうがないんですよ。

それから1年たったんですが、ラッキーなことにEU内でコーポレート・ガバナンス(企業統治)に関する私の修士論文のテーマに基づいたプロジェクトが立ち上がったんですよ。そこで1年契約で採用していただき、日米欧の現状を比較するテーマの日本部分を担当しました。その後、もっと各企業レベルのコーポレート・ガバナンスがどうなっているのかを調べるプロジェクトに移り、結局EUには3年いました。

その後、EUが支援するベルギーの研究所で2年間、コーポレート・ガバナンスと日本企業の競争力に関する論文を書いていました。そして、在籍中に経済協力開発機構(OECD)を退職された方がこの研究所に移ってこられました。ちょうど同じ頃、私は別のルートでOECDが立ち上げるコーポレート・ガバナンスのプロジェクトに契約スタッフとして来ないかというお誘いを受けていましたので、彼に相談しました。すると、彼はやめろと言うんです。「君はまだ出来上がっていない。博士号を取ってからにしなさい」と。そうは言われたんですが、こんな機会は一生に一度なので受けたいと思ったんですね。そこで、まだ当時は結婚していませんでしたが一緒に住んでいた夫に相談しました。一人にされたらたまらないといったところでしょうが、そこまで強く反対しなかったので、私はパリに6ヶ月間行くことになりました。その間は、月曜日から金曜日までパリで屋根裏部屋のアパートに寝泊りしながら仕事をし、金曜日の夜にベルギーに帰って、月曜日の朝一番の列車でパリに帰るという生活でした。当時はTGV(特急列車)がなかったので、現在は片道1時間20分で済むところが3時間半の道のりでした。

パリでの生活が終わり、「さあ、次は博士号だ」ということになりました。ベルギーの大学院は私の論文テーマを面白いと言って受け入れてくれましたが、すべて英語で書こうと思ってもらっては困ると言うんです。ある程度、フランス語で授業を取って欲しいと言うのです。もう、これは自殺ものでした(笑)。でも、これも人生だ!ということで、フランス語に熱中しました。とはいえ、これまで習っていた科目で理論は分かっていても使われる語彙が違っていたりで大変でした。4ヶ月後に試験がありましたが、一度は落ちました。その4ヶ月後には受かりましたが、丸1年かかりましたね。

◆久しぶりの日本、でも仕事の満足は…

佐久間

 1年間、しかもお給料なしの1年間が過ぎて、私ホントに疲れちゃったんです。ここで博士号を取ろうというエネルギーがもうなくなってしまって…。これ以上学生はやっていられないと思っていた矢先に、夫が東京のEU委員会に転勤することになりました。まだ当時は結婚していなかったし、彼としてもすぐに身を固めるのはちょっと難しかったので、彼の人生を尊重し、自分は自分のやり方で見つけなくてはならないと思いました。そこで、博士課程を続けつつ、日本での就職先を探し始めました。やはり、一緒に暮らしたほうがいいし、私は人生この人だと決めていましたので。そして国連大学に決まり、これまでのテーマに関連したプロジェクトを与えられました。日本の生活は楽しかったですね。食事もおいしいし。住居も職場に近くて良かったんですけど、何となく足りないんです。この仕事から満足は得られない、と。

  思えば私、最後の数回を除いて自分から仕事を探したことはありませんでした。で、ある日、国連大学に外務省の方から電話があって、ウィーンの日本大使館の専門研究員としてやってみないかというお話を受けました。そこで彼に相談しましたが、すごくショックを受けてました。よく分かりましたが、やはり私は自分で自分の仕事をゲットしたかったんです。彼とは無関係で、自分の力で立っていたいと思いました。だから、やっぱりイエスと言ったほうがいいのかなと思ったり。それに、(小声で)給料がすごく良かったんですよ。(笑)で、5人の候補者の一人だと言われましたが、(海外生活が長いので)いわゆる日本人でない私が受かる訳がないということで、バカンスに出かけちゃったんです。そうしたら、休暇中に両親宛てに電話があって「3週間後にウィーンに行って欲しい」と。やはり彼はショックを受けていましたが、結婚してずっとここに居るという話は出ていなかったので、それなら私は私の人生を行くということで、2年契約でウィーンに行きました。

  外務省での仕事は結構大変でしたよ。ただ、何をしてくれと言われたわけではありませんでしたが、私はこのままじゃいけないと思いました。例えば、専門調査員のためのマニュアルを作りました。考えられないことなんですが、専門調査員が帰るたびに引き継ぎがありませんでした。新しい人が来たら、1からやり直しです。1からネットワークを作り、オーストリア経済って何だろうと1から考えなければならなかったんです。だから、私は次の人に引き継げるマニュアルとオーストリア経済全般に関するリポートを書いたんです。上司も評価してくれましたが、私はとにかく自分の満足のためにやらないと、この2年間が何だったんだということになるからやりました。私はこれまで転籍を繰り返しているので、きっと知らないうちに今やっていることは必ず客観的に履歴書に書いてアピールできることじゃなければやらないという意識が働いていたんでしょうね。実績を残すということを常に考えていたんでしょう。

◆結婚、そして運命の地ベルギーへ

──  何だか自由研究のような2年間だったんですね。

佐久間 まあ、そうですね。でも、博士論文の題材にもなりました。とはいえ、こういう社会人生活にどっぷり浸かった後、学生生活にはもう戻りたいとは思えませんでした。で、当時彼は日本から帰国していました。外務省から契約を1年延長してくれないかと言われた矢先、彼からプロポーズされました!その時は悩みましたね。お給料も良かったし、3年間やった後に私は国連に行きたかったので。でも、頑固で一生結婚しないんじゃないかと思った人が変わったので、さびしかったのかな、などと色々考えた結果、プライベートを取ることにしました。

ベルギーに戻った後、何から始めてよいか分かりませんが、今後は政策の世界とビジネスの世界を両方知っていたほうがいいかなと思って、とりあえず1年間で経営学修士(MBA)を取りました。で、その後EUへのロビー活動を手がけるコンサルタント会社に就職しました。予算計算など具体的手法のほか、イギリスの会社だったので英語もたたき込まれて大変勉強になりました。評価基準も明確で、昇進も約束されていました。給料もいいし、車も携帯電話も与えられていたし、安泰でしたね。けっこう有名な会社だったので、顧客にも大きな顔ができましたしね。
でも、今になっても主人が言うんですが、当時私は毎日文句を言っていたそうです。仕事から満足を得られていなかったんですね。コンサルタントっていうのは、自分が分かっていなくても「はい、出来ます」と言って、つまり“調査屋”なんです。出来ないことでも出来ますと言って適当にやってプロらしく見せるというのがコンサルタントのやり方なんですね、汚く言ってしまえば。このカラクリが分かって、自己嫌悪に陥ったんです。給料も高いし、顧客はあがめてくれるんだけど、全然ハッピーじゃない。主人は本当にかわいそう、毎日愚痴を聞いて…。これじゃいけないですよね。

で、やはり社会をより良くする職業に就きたいなと思い始めました。日本で受けた教育とか、何か関係していたんでしょうね。ちょうどその頃、EUが労働組合やNGO、政府が一体となっていかに社会を改革するかということを協議するフォーラムを立ち上げようとしていました。ヨーロッパ人を対象に人を募集していましたが、語学ができるならいいと言われてうれしかったです。でも、フォーラムが立ち上がった後に事務所に出かけると、電話もコンピューターもない。それなのに、3ヶ月ごとの契約更新で、しかも2ヵ月後に4つの会議を企画してくれと言われました。これは、いくら逆立ちしてもできませんよ。本当にやりたいことでしたが、自分のキャリアに汚点を残すようであればやめたほうがいいと思い、契約書にサインせずに帰る羽目になりました。

◆これが私の求めていたもの

佐久間 その頃、エティベルが日・ベルギー協会を通じて日本人を募集していました。でも、日本人でこんなことに興味がある人はいないだろうということで、協会は公表していなかったんですよ。そこに、私が偶然協会を訪ねたんです。「何かないですかね~」という感じで。協会の人は「今のところ何もないんだけど、佐久間さん、こんな変なのが来てるよ。興味ある?」と言って見せてくれたんです。もう、「これが私の求めていたもの」ですよ!!すごく幸せでした。

── 念願かなってのエティベルでは、アジア・太平洋地域の企業調査担当として採用されたんですよね。

佐久間 いえいえ、ここからがまた私のキャリア開発なんです。最初は賃金も低い、単なるアナリストでした。でも、私はもっとキャリアがあるし、メディアとのやりとりもできるしという訳で、耐えられなかったんですね。それから、日本企業は私たちが送っている英語で書かれた調査をまともに読まずに捨てていました。これではダメ。でも、時価総額の高い日本企業を調査対象から外しては調査の意味がありません。それならば、日本企業の調査をしながら彼らの意識変革を促すと同時に、メディアへのPRも私がやろうと考えたんです。そうしましたら、現在のCEOが認めてくれて、昨年にはお給料を上げてくれました。やっと、趣味と実益と信念とが重なった仕事ができるようになり、やっぱり全力投球しちゃいます。(笑)今、すごく自然に仕事ができています。

◆働き方のこれから

──(宮崎) ところで、社会変革の要素として大企業が変わっていくのはもちろん重要ですが、それだけでしょうか?これからは企業に雇用されない働き方が広がって行くと思いますが、世界的に見てどうですか。

佐久間 個人単位になっていくでしょうね。企業の利益と自分の利益が合えば勤めるけれども、合わなければ勤めないという関係になるでしょう。大企業に勤められなかったらどうしよう、という考え方はなくなっていくでしょうね。ただ日本の場合、日本語を使うのは日本人だけで労働流動性が圧倒的に低いので、ある程度現状のように行くかもしれません。欧州や米国とは違います、やはり。私は日本に移民が来て欲しいと思いますが、言葉の面での苦労を考えるとおすすめできないという気はします。政府が移民に語学教育を無料でやる覚悟がないのであれば、移民は受け入れるべきではないと思います。

── 佐久間さん自身、これまで大組織も経験された後にエティベルに行かれたわけですが、これは大組織での限界を感じたということ?

佐久間 う~ん、むしろ逆かもしれない。小さいNGOとはいえプロの仕事を求められるんですから、それは大変です。これはここに来てから分かったんですが、NGOであれ労組であれこれも一つの既得権益なんですね。縄張り争いがすごくて、私はよそ者です。これが分かると、NGOだから良くて企業だから悪いということにはなりません。やっぱり男の人がやる組織はダメなのかしらね。(笑)信じられないんですが、うちはNGOなのにどこかの大企業と同じような年功序列型の給与体系をやっていたんです。当然変えてもらいました!企業を評価する私たちも変わらなければいけないはずなんです。今は天職に結びつきましたが、ここまでハッピーになれたのは今年に入ってからですよ。

実は私、これから先はパート勤務になります。10月までは週に3日なんですが、今は仕事が忙しいので、2日間オフィスに行って3日間は家でやらせてもらおうかと思ってます。夫が定年退職したんです。彼は私に家にいて欲しいタイプなんで、一緒に過ごす時間を少しでも多く持つためです。私は何というか古典的な男性が好きで…。家の中をうろうろして家事をやってくれる男性よりは、基本的にはドンと座っていてもらってたまにジェントルマンな対応をしてくれるだけでいいんです。(笑)でも、彼は少し家事はやってますよ。もちろん、アイロンもかけて料理もしてくれる男性が好きという方もいるでしょうが、これは完全に趣味の問題でしょうね。私、また転機にあるのかもしれませんね。

──(宮田) そういえば、これまでの仕事が変わる節目節目で旦那様の存在が浮かんできましたね。

佐久間 そうかもしれません。でも、私それでいいんです。それは、私がこの人と会うべくして会ったと思っているからでしょうね。これはとても幸せなことです。私たちってぜ~んぜん夫婦らしくなくて、ティーンエイジャーの恋の延長みたいです。でも、彼がいなかったら、私とてもつまらない人間になっていたでしょうね。人間的にすごく高めてもらいました。

◆働き方のこれから

──(宮崎) エティベルの企業評価はユニークですね。

佐久間 評価するだけではなく、素晴らしいことをやっている会社をPRする意味も込めています。日本企業も変わってきていますよ。トップが数値化した経営の現状を社員と共有した上で、未来の姿をきちんと提示する企業がいくつか出てきました。人事・評価制度を透明化したり、環境NGOとの連携を実践したり…。こうしたことを社会に対してきちんと公表することは自信がなくては出来ません。ビジネスはチャリティーではありませんが、モラルをビジネス思考で考える事はできるはずです。そんな企業を応援したい。

──(宮田) 日本では、社会的責任を果たすところほど儲けられないというイメージがまだあります。となると、SRIは儲からないと見られてしまわないでしょうか。

佐久間 実は欧州でも5、6年前まではまるで同じ状況でしたが、全く変わりました。それは、SRIファンドの運用成績が既存ファンドを上回っているという実績を示したからです。上回るまでいかなくとも、ほとんど変わらないぐらいの実績を上げているんだということが市民の間に定着したんです。SRIは チャリティーという意識がなくなり、儲けながら良いことをしているんだという考え方になりました。運用成績が同じマイナスなら、良いことをしながらそのマイナスを受けようではないかということです。
今、日本ではSRIが一般社会にきちんと伝わっていないという問題があります。金融業界の中で商品として語られているだけで、SRIの前提に企業の社会的責任というものがあるという考え方が伝わってないんです。これではダメです。

◆女性ファンドに込める想いと日本企業の現実

──(木村) 佐久間さんたちが仕掛けようとしている女性ファンドには、どんな企業を入れるんですか。

佐久間 女性の活用はしっかりしているけど他の要素が著しく劣るとなると、その企業は女性ファンドには入ってほしくないんです。他の要素がほぼ平均並みで、不祥事がなくて、倫理規定がきちんとあった上で、女性の活用という点で優れている企業があれば女性ファンドには入れたい。日本企業だけではなく、欧米企業もファンドに組み入れます。女性ファンドって米国にもあまりないんです。日本で発売した後に、欧米でも発売したい。世界の人々が、女性の活用をサポートする世界じゅうの企業を応援するというシステムにしたい。

── 女性ファンドが市民権を得ると、社会はどのように変わるでしょうか。

佐久間 そうですね、私はこのファンドが発売されることで、日本の中にもこんなに違う価値観があるんだということをためらいなく言える社会にしたいなと思っています。日本を単一なものと見て、日本と米国、欧州を比較してどう違うという議論はそろそろやめて、個人レベルで異なる価値観が認められていいと思うんです。「日本人離れしているね」と言われるのはもう飽きているし別にいいんですが、違う人がいるんだということを社会が気持ちよく認めて欲しい。いつも後ろめたい思いをするんじゃなくて。だって違っていいんですよ。今までが色々なことに縛られすぎていたんだから。

──(宮崎) そうですね。でも、企業の社会的責任という点では日本企業は世界的に見てまだまだでは?

佐久間 はい。私は香港とシンガポール企業も見ていますが、環境報告書を作るか作らないというレベルはすでにクリアしていますし、経営ビジョンもしっかりしている。あと、日本企業が騒いでいる女性の登用とか活用というのも、実はもはやテーマではないんです。日本は特殊な国です。6月中旬にベルリン で女性とリーダーシップに関する会合があったんですが、そこである企業幹部が「先進国の企業は、発展途上国の企業に対して女性の活用などの人事施策を率先して伝授する責任がある。しかしOECD加盟国の中でも、これは日本だが、全然遅れていて女性幹部が一人もいないような企業がある」と酷評されていました。

── どうして日本はそうなんでしょうか。

佐久間 日本人は海外の情報を人一倍良く知っている反面、そうした情報を人一倍分析してないと思うんです。数多くの情報の中でどれが必要なのか、それをどう活用して現状を変えていくのか、という視点が決定的に欠けていることが原因の一つにあると思えてなりません。

──(木村) これは、まさに日本人が受けてきた教育に関わる部分ですね。

佐久間 その通りです。その点、米国は全然違いました。自分で考えることを訓練されていなかったので、私も向こうで随分苦労しました。例えば人類学の授業では、ピグミー社会(狩猟採集)を現代社会と比較して共通点と相違点を挙げよという宿題を与えられました。私その時、日本社会とは家父長制が根強い点など結構共通する部分があるよ、といったような結論にしたんです。そうしたら教授がAをくれました。すごく自信になりましたね。やはり、米国はアイデアというものに価値を置く国です。何をどう知っているのかというのはどうでもいいんです。異なる分野の現象を結びつける能力っていうんでしょうか、教養的知識に基づいて異なる分野であっても互いの共通点を見いだす創造性、これはすごいですね。日本も米国も個人は同じぐらい能力があると思いますが、訓練の受け方が違うんでしょうね。
企業レベルに話を戻せば、最近日本企業のトップの間で「日本企業は今まで従業員に利益を与えすぎた。これからは、株主利益を考えるべきだ」という思考が広がっていますが、これは非常に危険です。彼らが従業員だと思っているのはエリート、男性、つまり正社員ってこと。で、本当に従業員を公平に扱ってきたかとなるとNOです。彼らは「従業員を大切にしすぎた」と言いますが、“一部の”従業員を大切にしていたに過ぎないんです。これまで大切にされてきた層は、既得権益を侵されるのを嫌がります。従業員は一生権利を持った存在だというのは皆同じはずで、すべての従業員が平等に権利にアクセスできるようにすべきだと思いますが、これを彼らに言うと黙り込んでしまうんです。
どうして日本はこう、価値観の振り子が大きく振れてしまうんでしょうね。欧州では、企業は株価を高めることだけではなく、安定的に成長し、スキャンダルを起こさず、かつ地域とも調和することのほうが求められます。投資家も消費者もこうした同じ価値観の求心軸に集まってきます。米国は、あまりにも極端な立場で利害対立してしまいがちです。日本と欧州は、政府組織が大きな権力を持っているということも含めて社会経済システムが似通っています。日本が米国のモデルを使おうとするのは間違いだと思うんですがね。

◆言い続けること、それが社会改革の原動力

──(宮崎) 現在の問題は、政府に経営感覚がないこと、そして企業に社会的使命感が欠落していることだと思うんです。そうなると、その両方を持ち合わせたNPOなどの中間的存在が重要になってきます。そして、こうした存在が互いの足りない部分を補い合いながらネットワークを組んでいく。そうなるかどうかは分かりませんが、私たちがそうなると思えばそうなると思っています。

佐久間 その通り、物事を変えるにはどれだけエネルギーを注ぎ込めるかです。トップの役割もそう、どれだけ言い続けられるかです。引っ張っていく人がいると、周りはそのエネルギーを感じて動機付けを与えられる。これはとても大切なことです。昨晩たまたま見たテレビで、戦後直後から救命救急医療にずっと携わってきた方が取り上げられていました。当時はこの医療をやろうとする人は誰もおらず、この人も周囲から「お前は死にかけている人を扱っているだけだ」と嘲笑されたそうですが、「いつかこれが重要になる時代が絶対来る」と信じて取り組んでいたそうです。彼らは学会で言い続けたんです。そして、20年後に認められたそうです。私は見ていて涙が出ると同時に、どんな分野でも同じなんだなと思いました。

── 今いろいろなところで社会を変えたいという動きが同時多発的に起きて います。それをどうやって個々の活動にとどめずに大きなパワーにするかがすごく重要です。もちろん一人一人のパワーも重要。言い続けるとともにつながっていく──。分不相応かもしれませんが「きゃりあ・ぷれす」がこうしたつながりを情報提供の面から支えられれば、それが「きゃりあ・ぷれす」にとっての“天職”になると思ってます。今日はどうもありがとうございました。(了)