■プロフィール■
松田 恵美子 (Matsuda Emiko)
身体感覚講座 講師
記者・編集者として、出産を機に「よりよいお産」を探るうち、現代人における生命力の発露へ眼が向く。瞑想ヨーガを塩澤賢一氏に師事。
社団法人整体協会・身体教育研究所(野口裕之氏主宰)にて内観的身体技法を学び、身体内の動きと内部感覚の領域へ。
四季折々の生活に則した身体の観方、使い方の指導にあたる。
◆身体感覚講座とは◆――――――――――――――――
この講座では、四季の移ろいと共に変化してゆく、身体に潜む「自然の動きと感覚」に出会ってゆきます。
まずは、自分の身体の内側に眼を向けてみる。外を見たときの違いを知ってゆく。
そして、身体内に生じた感覚を味わいつつ、動きの流れに乗ってゆく。
そこでは、いろいろな発見が起こります。
ビックリしたり、ナルホドと納得したり……。
おもしろがって、自分の中のいろんな感覚に出会ってゆくうちに、身体の内側の勢いが目覚めてくるとイイ。
イメージは使いません。
アタマで身体を支配せず、実際に自分の腹や腰をちゃんと使ってみようよ、という挑戦です。ちょっと大変だけど、自分で自分を変えてみようよ、という試みでもあります。
ですから実技は、仕事や日常生活、人間関係など、日々の営みの中で、自分で実践していけることが中心。
クールに自分を観つつ、「自分の身体の自然」と共に生活できる知恵やヒント、喜びや楽しさをお伝えできたらと思っています。
■混沌の中にあった可能性
宮崎 松田さんは、お生まれはどちらですか?
松田 東京の世田谷区です。小学校、中学、高校は一貫教育の学園に通ったのですが、受けた教育でいえば、小学校がいちばん印象深いです。当時、その小学校では教科書は先生方の手作りで通信簿もない。ノビノビ、自分の好きなことに向き合ってごらん、という環境を用意してくれていたような記憶があります。たとえば、クラスのお楽しみ会で劇をやるとする。練習時間が足りない。すると先生に「頼むから時間をください」と皆で談判しにゆくわけ。先生たちもいろんな要求をこちらに出しながらも、結局は2日間くらい劇の時間に当ててくれる。「ヤッタア!交渉成立!」というところで、まずクラスメイト同士の“やる気”が高まっていく。雪が降った日なんか上手に持ってゆくと、1日中、雪合戦や雪だるまで遊ぶ日にできちゃう。
今から思えば、先生方にはうまくはめられていたなとわかるんですけれどね。たくさんの知識を与えるより、子供だった自分たちの中から「これがやりたいっ!」っていう要求が起こることを、むしろ先生方は望んでいたんじゃないか。そして、その出会ったときを逃さない。「時間ですよ」と細切れにしない。「規則ですよ」と縛らない。出会えたものに、納得のいくまで十分、携わってごらんという姿勢で接してくれていた。
これは大変ありがたいことでした。今の私の素地を作ったのではないかと思うほどです。時間を忘れるほど夢中になるものと出会う喜びや、“皆で力を合わせれば、それをつかむことができるんだ”と可能性が信じられること。初めて出会う小さな社会において、その環境が確保されていたんだな、と。そのぶん、大人たちは本当に大変だったでしょうけど。
宮崎 その小学校の校風というのは、松田さんの人生を最初に位置づけたものなんですね。
松田 おそらく。あの年齢だったからこそ、余計なもので目を曇らせることなく、ものが観えた。しかも夢中になるものと出会えるということは、自分と対峙する世界の中へ入っていけるということでもありますから。“集注する”そのこと自体に、すでに喜びがある。
子供の頃、自分が懸命にかかわれることを探り、体験してゆくことって、結構、職業を決めるときのバックボーンになるんではないかと思うんですよ。さらに、職業を定めて続けてゆくときの支えにもなるのではないかと。
宮崎 時代的な要素もあるでしょうが、私も松田さんほどではないとしても、似たような小学生時代を過ごしたような気がします。今の小学生に比べれば、ずいぶんおおらかな生活でした。
ところで、松田さんは、小学生の時、将来はどんな仕事をなさりたいと思っていらしたんですか。
松田 エーッ。そんなこと言っちゃうんですか。ぶっとんじゃいますよ。
宮崎 どうぞ、出し惜しみせずに言ってください。
松田 魔女になりたかったの。魔法が使えたらなぁ、と。小学校低学年くらいまでは、箒にまたがったら絶対に飛べるに違いないと信じていました。飛ぶにはきっとコツがあるだろうと。親の目を盗んでは、コッソリ箒にまたがって庭を何度も行ったり来たり、工夫してました(笑)。そういう宮崎さんは?
宮崎 私は、兄が読んでいた少年マンガ雑誌の影響で、手塚治虫や白土三平のマンガが大好きで、自己流でストーリーマンガを毎日描いていた子供でした。将来は虫プロに入ってマンガ家になりたいなんて思ってました。その頃は、もし刑務所に入れられることがあっても、紙と鉛筆さえあれば別に困らない、なんて思ったりして。
松田 アハハ。私、小学校6年生の時は、もう少し考えました。たまたま、卒業文集をまとめる役で、お題の1つが「10年後、20年後の僕・私」だった。あれはお役目上、初めて真剣に“将来の仕事”のことを12歳にして考えてみる機会でした。
ちょうど、その夏、大阪で万国博覧会が開かれたんですね。私は行きたくてたまらなかったんだけど、親に連れていってもらえなかったので“よし、それなら”と「次の次くらいの万国博覧会では私はもう大人になっているから、海外に行って、日本の文化を紹介するホステスになります」と書いた。今でいうコンパニオンなのかなぁ?(笑)颯爽と外国の人々の中で、女性が仕事をしている姿に憧れたのかもしれません。「海外で仕事をしたいから、中学に行ったら一生懸命、英語を勉強します」なんて宣言までしちゃって(笑)。
でも“それがだめなら……”と次の案もちゃっかり用意してました。「本を作る人になりたい」と。あの頃は、自分の知らない世界に入りこめるのが本だったからでしょうけど。それもだめなら「北海道かどこかの広い牧場に行って、そこの人と結婚して、馬の世話をして暮らします」。
この脈絡のなさ!(笑)数十年間すっかり忘れていた夢ですけど。でも今回、このように「自分と仕事」というテーマで改めて振り返る機会をいただいてみると、あの時代から数十年間過ごしてくる段階で、だんだん昔の夢に遡っていっているような気がしてくるんです。原点に戻っていっているというか。あの頃、思いついた夢と大人になってからの現実では、随分やってきたことの形は違うのだけれど、根底に流れている何かを1つひとつ昇華しながら、時間が過ぎてきた、という感じがします。自分が希求するものとか、携わっていく姿勢とか。知らず知らずのうちに形こそ違えて体験してきたという。それは、きっと幸せなことなのかもしれませんけど。
宮崎 私は4月生まれなので、小学校4年生までは全く努力することなく、いい点がとれました。ところが5年になると、努力することを知っている3月生まれや2月生まれの人にあっさり逆転されて、それでも努力するのは苦手なので、以来ずっと優等生とはほど遠い反逆児のままといったところでしょうか。でも、そのことが今という変化の時代には合っているのかもしれません。
人生、何が役に立つかわからないものです。
松田 少なくとも、小学生の間「何にでもなれるんだ」という、自分の可能性を混沌の中に置いておいてくれた教育のあり方に、今思うと感謝せざるを得ない。野口整体では、よく「子供は、丸―く(まあるく)育てなさい」と言われます。
ある部分だけを突出して育てると、かえってある部分が欠けてゆく。たとえゆっくりでも、本人からの要求に添ってゆけば、どの方向へも向かえる球体のようになって、時期がきたらちゃんと自分で定めた方向へ進み出すということなのでしょう。まるで、卵から雛が孵るときのように。雛が卵の内側から、コツコツと殻をつつき出すような感じかな。そのとき、丸い卵の中から次のことが起こってくるのは、十分に何かが満ちたからではないでしょうか。
宮崎 英才教育なんて、もってのほかということですね。そんなことしなくても天才は天才として出てくる。環境を作り上げてムリヤリ天才を作ろうなんて、親のエゴ以外の何ものでもないですよ。逆に子供の人間としての無限の可能性をつみっとっていることに気づくべきだと思います。
■選択は人の目?自分の目?
松田 夫の仕事が中学・高校の教師でして、家にはしょっちゅう卒業生やら生徒達がやってきて、いろんな話をしていきます。将来どんな職業に就きたいかという話になると、中学生で考えているコというのはかなり現実的でして……。人の役に立ちたいという純粋な動機とともに、「この資格を取ると、月々いくらの収入で勤務時間は……。」という把握をしだす。まるで新聞の求人広告に合わせているみたいなんです。
「ネェネェ、小学生の頃、宇宙飛行士とかスチュワーデスとか、野球選手になりたいとか、夢持たなかったの?」と水を向けてみると「なりたいものを考えたけど、自分にはできないと1つひとつ消していったから」と答えてくる。小学生の時点で、すでに自分の漠然とした夢すら見れないコが増えているんですね。教育現場だけでなく、親すら「勉強だ、塾だ、習い事だ」と子供を追いたてている現状ですから、子供たち自身、自分は本当は何が好きかなんて出会っている間もないんでしょうけど。
宮崎 なんだか、わざわざお金を使って、子供の時間を奪って、子供たちの可能性や考える力や創造力をつぶしているようなものですよね。
松田 確かに。そして一番気になるのは、子供たちが、自分の将来の夢を述べる時ですら「社会の基準や他者の目から見られている自分」を自分で判断してしまっていることなんです。「私は勉強が嫌いだから」と自分で自分を思うのと、「私は皆と比べて勉強ができないからダメ」と自分で自分に烙印を押してしまうのでは、すでにスタートの時点で根本が違ってしまっている。
つい先日も、中学を卒業した息子のもとへ「小学校のクラス会やろうぜェ」と受験を終えた友人たちがやってきた。彼らが行っていたのは地元でも「所沢の学習院」と呼ばれているほど評判の公立校なんだけど、「ところでオマエ、高校どこへ行くの?」という話になったら、みんな急に下を向いて黙ってしまったんです。たまたま家にいた夫が、一番キカン坊だった息子の友達に向かって、 「オイ、どうしたんだよ?」って聞くと、「だって、俺、一番偏差値の低い私立校に行くんだもん」と蚊の鳴くような声で小さくなって 「じゃあ、ナニカ、お前? 偏差値の高い高校や大学へ行った奴が、“良い仕事”をするのか?」と夫も突っ込んだら、みんな神妙な顔をしている。
その後、急に「○○は慶應に受かったんだってェ」とかなんとか始まって、場が急ににぎやかになっちゃった。その慶應に受かったコっていうのは、小学校の時から御受験一直線のヘナヘナの青白い子なんだけど、子供たち自身が、その歪みに気づいていながらも、どうにもならないところに身を置いているんだなぁと思いました。しかも、点数で序列された価値観で自分の人生を見ようとしちゃう、自分の仕事を選ぼうとしちゃう。そういう価値観が、子供時代に刷り込まれちゃうことが残念でならないんですよ。人はそんな単純なものじゃないし、いろんな可能性を秘めているのに。
宮崎 でも、そんな弊害を生み出しているのは、学校教育や受験体制だけではないような気がします。子供をマーケットとしたビジネスの熾烈な戦いは、子供たちに麻薬のように刹那刹那の快楽を与えるモノやサービスを提供し続けています。その中に逃避している限り、自分の「心」や自分なりの価値観を育む必要がなくなっているのではないでしょうか。
松田 それは子供だけでない、大人も同じですよね。自分の人生を「人の目から見た自分の評価」で選択していないだろうか、ということ。人からどう見られるかを基準にして、自分の行動や考えを決めていないか、ということ。
とかく今の日本って、マニュアル的模範回答ができて、口先、手先がよく動く奴が幅をきかせているでしょ。安定さえ求めていれば、身体ごと体当たりでぶつかっていき、乗り越えてゆく体験なんて、ほとんどしなくても生きてゆける。
宮崎 でも、そういう時代はバブルの崩壊とともに終焉しました。そして、バブル以前のような日本には決して戻らないでしょう。今、時代は下克上の戦国時代です。寄らば大樹の陰が通用しない。おもしろい時代だと思います。
松田 確かに時代は変わり出したな、という気もしています。まず若い子たち。既存の価値観に身を浸らせ、金属疲労のように磨滅してゆくコがいる反面、そこから脱け出して自分の可能性に体当たりしてゆくコが出てきている。学歴を超えて、自分のやりたいことを手探りでつかんでゆく。人生に対する満足感の質が変わりだしてきた。まさに“生き方としての進路”を選択してゆく姿勢です。特に若い子は柔軟ですし、背負っているものも少ない。自分にとっての仕事観、自立した人生ということと青春時代にしっかり向き合うと、どんどん変わってゆきます。
やっぱり、自分の好きなことを仕事にしてゆける、集中できるものを見いだしてゆけるというのは、生きる力でもあると思うのです。そして「変われる」ことも力なんだと思う。人から、どんなに羨まれるような経歴や収入があっても、本当に自分が自分に満足しているのかは、その人が一番知っています。
宮崎 今の時代って、厳しいけれど、とってもおもしろい時代だと思います。お金がグルグルまわっている時は、何となくカッコつけて生きていられた人が、急にバケの皮がはがれて破綻してしまう。これからはカッコつけようとしてもムリだから、自分が自分で満足できるような生き方や働き方しかないんじゃないかと思うんです。
松田 その満足感というのは、自分の身の回りをいろんなものでいっぱい飾り立てることじゃなくて、自分が自分で「ヨシ!ヤッタ!」と判子を押せるような充足感。全身全霊でかかわってゆくもとに、生み出されてくる充実感といってもいいかもしれません。それを仕事に見いだそうとするには、更に人生を前向きに捉えてゆける技みたいなものが必要になってくる。
そして一度でも、その充足感を味わうと、さらにもっと深いものに出会いたいと望んでいくのもまた、「人の力」なんじゃないかと思うんですね。そういう充足感に出会うためには、まず、自分の内側の要求
に目を向ける。身体ごと真剣にかかわっている自分に出会ってゆく。まず、そういう体験の中から、次のステップが生み出されてゆくように思えてならないんですよ。
■“私なり”に仕事を決める
松田 それにしても宮崎さん、「天職を探せ」とは、随分、思い切ったタイトルをつけましたね。むしろ今って、“自分で自分が一番よくわからない”っていう人、増えていると思うんです。与えられることに慣れすぎちゃうと、自分が本当にしたいことが何だかわからない。忙しさに追われることが当たり前になっちゃうと、疑問すらもたない。そういう中で、あえて極めて個人の事情に揺り戻すというか……。
宮崎 そうですね。確かに、ちょっと無謀な企てかもしれません(笑)。でも、今だからこそ自分に立ち返ることが重要なんだと思ったんです。戦後の高度経済成長期やバブル期を経て、と言うよりは、産業社会の進展によってと言ったほうがいいかもしれませんが、「仕事」というものが、どんどん細分化、専門家され、「個人」の価値観やトータリティから乖離したものになっていったように思うんです。
労働組合的な労働者保護の立場からも、労働時間はできるだけ短いほうが良く、余暇の時間を増やして、そこで自己実現していくのが正しい姿みたいな方向性で議論がなされています。でも本当にそれが人間にとって幸せなんでしょうか? 社会にとって有益なんでしょうか?
これも今から考えると無謀なんですが、失われた10年と言われるディケイドの最初の年、1990年に会社を始めました。そのきっかけになったのも、そういった基本的な疑問と、それに対する答えを探したいという気持ちがあったからです。もちろん、現実的には日々食っていくのに精一杯(笑)なので、すんなり理想どおりになっていかないんですが。また時代的にも、私にとって90年代というのは、全然失われた10年ではないんです。むしろ、産業社会的労働観の行き詰まりが明確化し始めたという意味で、大変重要な10年だと思っています。
その辺の話をすると長くなるので、また別の機会にしたいのですが。「きゃりあ・ぷれす」、その中でも特にこの「天職を探せ!」の企画は、分断された「仕事」と「個人」を結びつける方向性、方法論を探るために、私にとっては分不相応ではあるけれど、大変重要な試みなんです。
なんだか、私の話が長くなってしまってすみません。脱線はこの位にして、松田さんにぜひうかがいたいのは、仕事と子育てについてです。読者の中にも、子育てをしながら自分の道を見つけたり、仕事をしている人が多いと思います。松田さんが、実際に3人のお子さんを育てながら仕事を続けてきたのは、一体どうしてなのでしょう。
松田 「どうして続けてこれたのか?」と今だって思っています。フシギ。仕事がしたいという欲求と、稼がなくちゃと思う状況が、うまくセットになっているのはいいけど、「続ける」となると一筋縄ではいきませんし……。いくら、それが生活と直結していたって、「こんなにキツイのに何でやるんだろう」と、そう思うことは何十回、何百回もあったわけですから……。原稿を書くときなんか、今でも必ず一回は思いますよ(笑)。まぁ、私の場合、どれも“産みの苦しみ”みたいなものだから、喉元過ぎれば熱さも忘れて、すぐまた前へ進みたくなるのかなぁ。
女性ならではの各々の人生の選択がある中で、よりによってスキ好んで「仕事も結婚も」と両手でそれぞれをつかんだままやってきちゃったわけでしょ。おまけに子育てまで。背中と前だけじゃおぶいきれないから、夫の背中にも1人くっつけて。いろんな人の手を借りて助けられながらも、根性や我慢でなく、病気にもならず、爆発や暴走も余りせず、今まだここにいるのは、ささやかな充実感をそのつど味わえてきたからとしか、今は言いようがない。
宮崎 すると、大学を卒業するときには、仕事はどういうものだととらえていたんですか? 自分はずっと働くものだと思ったのか、結婚したら働かなくてもいいと思ったのか。
松田 実はその当時、今の夫との遠距離恋愛にハマってまして。「仕事もする、結婚もする」と両方持つことに決めたのが、その時でした。しごく当然に。ちょっと“イキナリ、ヨクバリ”だった、ですネ(笑)。“仕事のキャリアをもっと積んでから、結婚は考えたほうが良い”とか、“知らない土地に行ってまで仕事なんかしないほうが良い”とか、 いろんな意見がいっぱいあったんですが、とにかく、それに耳を貸さないほど私が若い。計算なんかしたくない。
「自分は何者なんだろう、どこまでできるんだろう」と自分の力を試したい盛りでしたし。おまけに彼も東京で就職するかと思っていたら、頭が固くて「長男だから」と当然のごとく田舎へ帰ってた(笑)。
彼は教員試験の勉強をしていたんですが、「試験に受かったら、早くこっちに来い」と急かし出して。結構、切羽詰まらされた(笑)。でも、そういう状況でもない限り、私は真剣に覚悟もしなかったでしょうけど。映画の『スプラッシュ』のトム・ハンクスみたいに、人魚の彼女を追って海の中に飛び込んできてくれたら、と当時は思いましたよ。でも、人に望むなら自分がやろうと。結局は、「この人が動けないのなら、私が動けばいい」という判断をしました。親は泣きましたね(笑)。
宮崎 そのとき“自分の仕事を決める”というのはどういう基準だったんですか?
松田 ゆくゆくはそういう事情になりそうな予感もあったので、体ひとつで、どこででもできる。しかも自分が納得できて、やればやるほど経験が重なってゆく仕事。それが大前提。今思うと、当時からだいぶ職人志向だったんですね。
宮崎 企業に入る道を、どうして選ばなかったのでしょう。
松田 親にも相当、勧められました。「ちゃんとお給料をもらえるほうがいい」って。でも、私の満足と利益を追求する企業の満足が一致する、そういう企業があるかどうかって、まず考えました。すると、1つだけ思い浮かんだ。
変な話ですけど、20年くらい前の女性の生理用品ってブヨブヨとやたらに厚ぼったくて、すぐ漏れちゃう。日本の紙の技術って相当なもののはずなのに何とかならないのって、毎月思っていた。これを開発・改良する仕事ならやりがいはあるな、と思って。それとなく店先で、パッケージのデザインや宣伝方法を見たり、商品を試したりしていたら、1社だけ先進的な感じがする会社があった。“そこならば”とも思いましたが、大組織に入った時、どこに配属されるかわかんないし、待って過ごしている間はない、と。
それに、学生時代から、子供たちのキャンプに付き添うリーダーたちの仲間と自主運営の組織を作っていたので、“好きな仕事で食べていく”という気概と憧れだけは、すでに経験済みだった。だから、固定給をもらうより、やったらやった分だけもらえる、そのほうが自分の性に合っている。そんな漠然とした思いがあったんだと思います。
■閃きが“ピタッ”とはまる感覚を追って
宮崎 で結局、企業の試験は受けなかったわけですか。
松田 はい。実は小学生の頃からピアノを習っていたので、ヤマハに行って資格を取れば、全国どこに行っても食べていけると考えて、1年間、こっそりと必死に練習したりしました。でも、いざ“これでグレーが取れる”という段階になった時に、何かピタッとこなかった。結婚する、すなわち愛媛に行くからというために、その仕事を選ぼうとしているということが自分でわかっていたんでしょうね。なんか、自分で自分に「しょうがないじゃない」と言い聞かせている感じ。そこまで気付いちゃうと、ちゃんと振り出しに戻らざるをえない。
それで、子供の頃から、私が人に言われなくても自分からやっていたことって何だったんだろう。私の取りえって一体何だろうって、真剣に考えてみた。ちょうど21歳の時です。まぁ取りえとは、ちょっと言い難いけど、好奇心はある。探求心もあるだろう。もう1つは、子供の頃から日記だけは書いてきたから、書くことは続けられそうだ。それと体力。中学・高校の6年間はインターハイを狙うほど強くて辛いバスケット部に入っていたので、人並みに絞られても逃げ出さないだろうと。この3本柱に思い至ったとき、やっぱり書く仕事を狙ってみるのが筋だと思ったわけでして。 では、何を書くの? といっても煮詰められない。まぁ旅が好きだったから、あちこち、土地の文化を紹介できる旅もののライターになりたいと。四国に行っても、これなら向こうから情報も送れるだろうというヨミもあって“よし”と、まず本屋さんに行きました。そこで、ピーンとくる出版社や本を探していたら、「ブルーガイド情報版」がたまたま発刊されたばかりで、棚に平積みにされてピカッと光っていた。「これだ!」と思って。
宮崎 で、編集部に出かけていったわけでしょう。普通はなかなかできませんよ。もしかしたら「学生はとらない」とか「あなたには力がない」と言われるかもしれない。
松田 それは当然でしょう。向こうには向こうの事情があるわけですし。とってもラッキーだったんでしょう。その時は編集長が出てきてくれて、 「女の子は最初はお茶くみで、編集の仕事に回りたいと言っても10年はかかる。実は、この本の数十ページは編集プロダクションに任せてあるので、出版社で編集の仕事を待つより、そっちへ行ったほうが即戦力がつくだろう」と、丁寧に教えてくれました。
宮崎 実際には、編集プロダクションが作っていたわけですね。
松田 ええ。ちょうど分業化がどんどん進み出す時でした。そこは、結構大手の編集プロダクションだったんですが。それで、そこに向かうと、社長がざっくばらんな人で、「ちょっとやってみたら?」とすぐに話が決まり、学生時代から下積みが始まったわけです。
そこは女性週刊誌系も多く作っていたんで、旅ものはもちろん料理、美容、店紹介、芸能人のインタビューなど、何でもござれという感じ。最初は先輩の記者に連れられて要領を覚え、原稿も最終確認者に渡す。そのうち1人で街に出されて「今まで紹介されていない、オイシイお店を探してきて」とか。そうやって、だんだん鼻も利くようになってきた時、やっと旅ものの記事を任されました。時間はとてつもなく不規則でしたけど、業界の雰囲気やノリを肌で感じるから、いつも好奇心でいっぱいという感じでしたね。
宮崎 何をしようかなと思った時に、やっぱり動けば道は開けるんですよ。後悔しないためには、失敗しようがなんだろうが、自分はこうするべきだと考えて行動したほうがいい。松田さんは、自分がいま何をやるべきかをよく考え抜いて行動を起こすことに慣れていたんでしょうか。
松田 いいえ。よくは考えないですね。ピーンと閃いた後に、ならばどうしようかと。その後で思いをめぐらすほうです。その“ピーン”が“ピタッ”とハマるまでは、「何か違うぞ」と気になり続ける。「コレダ!」と腑に落ちたときに、一気にいける。
これは後からの体験で、だんだん分かってきたことなんですけど、与えられた状況をどう捉えるかは、結局はその人が選んでいるんです。ものごとって、いろんな受けとめ方があって、私たちは気付かないうちに、自分のクセでそのものを見る角度を決めている。逆に言ってしまうと、どんな最悪の状況に陥ろうと、それをどう捉えるかはその人次第。むしろ、「どう受け入れるか」こそが、その人にできることなんでしょうね。観方は変えられるんです。その後に行動がついてくれば良い。
そこに気がつくと、「あいつが悪い」とか「社会が悪い」って、あまり人のせいにはできなくなっちゃうんですよ。無意識にでも、要は自分が選んでいる。逆に自分が選べるんだということ。どうしようもない状況になった時には、主体性をこちらに取り戻していくしかない。
■挫折をどう受け入れるか
宮崎 結婚後は、四国の松山に行かれたんですよね。やはり編集の仕事ですか?
松田 ええ。まるっきり初めての土地で慣れていくには、まず地元のタウン誌に入れてもらうのが一番いいかなって。そのタウン誌では、企画はもとより、営業、広告制作、取材、編集、本屋への配達、売り上げ確認、回収まで数人で全部やっちゃう。おまけに、地方を廻る芝居や映画、講演会、その土地ならではの文化的内容が守備範囲に加わってくる。小規模だからこその面白さがありました。
東京で育つと、つい都会イコールそれが日本と思いがちでしたが、大多数の地方の姿こそ実は日本なんだと思いましたね。それからだんだん人脈もできて、タウン誌だけでなく、いろんなことに挑戦させてもらいました。ラジオドラマのシナリオを書いたり、地元の新聞に週1回のエッセイ欄を持たせてもらったり。
宮崎 それは、松山にいらして何年ぐらいしてからですか。
松田 2年目ぐらいからかな。保守的な風土だったので、東京から来たというだけで目立ったんでしょうね。管理教育の有名な県で、教育現場での話などを聞いて「ナゼ?」と思うことも多くて、それを何回かエッセイの題材にしたら、ある日突然、夫が僻地一級に飛ばされてしまった! どうも、私の存在も一因になっていたらしくて。スゴかったですねぇ、四国で一番高い山の麓って。冬はビール瓶を外に出しておくと、凍って割れてしまうほどの寒さなんですよ。 今月からここで暮らすという教員住宅に行ったとき、ガランとした八畳一間に電話線の穴だけが黒々としていて、ボットン便所には大きなゴキブリの卵がツヤツヤと転がってました。思わず、畳にヘタッと座ってネ。「悔しい」というより「ヤラレタ!」という感じでしたね。どうしようかなと茫然としつつ、一方では「ヘェー、書きたいことを書くと、こういうことになるんだ。よく映画にあるジャーナリストみたいじゃないか」なんて思ったりして。夫は夫で、「俺は団体活動をしていないのにナンデ僻地なんだ?」と考えていたみたいですけど。
後で新聞記者の友人に調べてもらったら、書類上はキレイに処理されている。見事にハメられちゃったけど、「そのうち、バチでも当たるよ」と思うことにして、さぁて……どうするか。そのままここで暮らす前に、おそらく一生この県で僻地回りという、この土地ならではの事情に従うかどうかをまず今、考えたい。ここで2人で移動すると土地の風土に、きっとのまれるな……という直観がして、「好きにしていいよ」という夫の言葉に甘え、私は1人、街に残ることにしました。残って、1人に戻って模索しようと。
ところが模索どころか、次から次へと友人たちが仕事の話を持ってきてくれて、あげくの果てには「素人で松山初のミュージカル劇団を作ろうよ」という話になって、自宅のマンションがまるで事務所。
800人の会場を満員にするほどの公演を立ち上げました。それが、今では県お墨付きの劇団になっている。時代も変わるもんです。
まぁ仲間が集まって何かを創り出す活動というのは、このあと東京へ戻ってもずいぶんやりました。私の場合、ライター、イコール火付け役という役割だったのかもしれません。1人になって書くということと、みんなで何かを創りあげていくという共同作業の循環が円になっていて、知らずに前へ進む原動力になってきたんですね。
結局、夫は1年後、埼玉県に「自由と自立をめざす」という私立の学校が新しくできる情報を得て、試験を受けました。旅立ちが決まった時、地方新聞に「地元の子供を捨てていく教師がいる」と匿名の投書が載りました。善意に取れば、きっとその人も、この土地の変わらない状況にいらだっていたんでしょう。でも私は、松山を出る前にエッセイ欄に最後に書かせてもらいました。「自分の青い鳥は、自分で見つけるしかないと思っている」って。「だから自分の生きる場は、自分で創るしかないんだ」って。植物の芽だって、出るときには出せるところを自分で選んでいるんですから。
■待てるか、待てないか
松田 スミマセン。人生をあらすじ化しちゃつまらないと思うと、つい話が膨らむいっぽうで……。まだ肝心の“身体感覚”の話までもいってない。
宮崎 ちょっと辛口なところもあるけど、「何だか朝の連ドラを見ているみたい」なんて言うと怒られそうですね(笑)。
松田 イヤぁ、昼メロの要素も、もう少しあればいいのに(笑)。私の場合、いつも周りの状況の方が先に進んじゃう。本当はのんびり優雅にしていたいのに、このままだと何か違ってしまいそうと思うたびに、最も“自分の満足”と折り合いのつく方法を、そのつど選んできたみたいです。でもその時、目先の利益や感情を優先するのでなく、自分の奥にある、今、見失ってはいけないものを探ろうとする。今、その状況でできる最も単純なことを。思うに、愛媛時代の、夫の転勤についていかずに1人で街に残ったというのは、無意識に「間を置く」という選択をしたんでしょう。波に巻き込まれたくなかった。ところが妊娠の場合は、そうはいかない(笑)。
宮崎 東京に戻ってからも、また、編集の仕事をされていたんでしょう?
松田 ええ。脚本家の事務所で取材を手伝ったり、石材建築の専門誌にいたり。自分のテーマを持ちたいなぁと思いだした矢先に妊娠して、「なら、出産でいこう!」と。愛媛にいた時、『お産と出会う』という本で毎日出版文化賞を受賞した、文化人類学者の吉村典子さんと懇意にしていたこともあって、「女にとって、よりよいお産とは――」を、自分の体験で探っていこうと思ったわけです。本当にお産って、キツイ、苦しいばかりなんだろうか? 妊娠中の身体の変化、出産方法、産む場の現状や選択、確かめたいことは山ほどあって興味がつきない。というか、年子で続けざまに3人妊娠しちゃって、もうそういう方向へ一直線……。
出産というのは、否が応でも自分と向き合わされますね。命がけというのか、身体が自分の意思のとおりにならない極み、というか。その瞬間をどう迎えるのかということに、今まで過ごしてきた人生の何かが、みんな出ちゃうような出来事。その時々の私を象徴するかのごとく、三人三様の出産体験でした。
特に3人目の体験は、私にとってとても大きかったです。ジャングルの奥地で子供を取り上げた経験のある助産婦さんがついてくれて、 「また来たの? あなたの好きなように産んでごらん、どんなふうに産んでも大丈夫だから」と心強い応援をしてくれた。で「今だな、産まれるな」という瞬間、お腹の子に「もう産まれてきてもいいよぉ」と心の中で声をかけました。そのとたん、回転滑り台をスルスル回り
降りるような感じでスルッと生まれてきちゃった。一体、何が起きたんだ? それまで、お産というのはウンウンといきみ続けて産むものだと思っていたのに。でも「コレが出産ダッタンダ! 自然の理(こ
とわり)とは、こういうことだったんだ」と3人目にして、やっとつかめた。今でもこの子は、耳の大きな、気持ちのよく通じるコですけどね。
宮崎 へぇー、すごい話ですね。そのことを書こうとは思わなかったのですか?
松田 マタニティ雑誌の創刊が相次いでいて、マタニティライターとしてデビュー寸前でしたけど(笑)。極めて個人的な体験だから、マスメディアに出して雛形にしない方がいいなと思いました。言葉にしない方がいいこともある。言葉にできないこともあるんだ、と。でも、自然の動きが発生してくる中で何が起こったのか、自分でちゃんと把握していきたいと思いました。
宮崎 それが、現在の“身体感覚”の世界へと続いていくわけですね。
松田 はい。結局、仕事で外へ外へと向かっていた自分の意識の方向が、出産をきっかけに自分の内側に向かいだしたんだと思うんです。おまけに子育て! 出産で身体の自然に目を向けることに行き着いたら、日常では“その自然が待てるかどうか”を生活の中でいつも試されている。もう修業としか言えませんよね(笑)。
たとえば、子供が昼寝している間に原稿を書く。起きちゃうと「もう5分寝ていてくれれば」とガッカリします。「よく寝れた?」と聞く笑顔がヒキツっている(笑)。2人目が産まれてからは、明け方の3時、4時に起きて机に向かうこともしましたが、日中に眠くなって、子供と一緒に昼寝をグーグー。家の中はグチャグチャ。何より欲しいものは、時間! お金よりも時間!という生活に一気に変わったわけです。こと、原稿の締め切りがある時には、電話の呼び出し音が一番コワイ(笑)。
宮崎 お子さんとの時間も、仕事の時間も、それに集中したり楽しんだりできない状態だったんですね。
松田 生きものが成長していくのには独特のペースがあるのに、仕事のペースの自分を引きずったままだと、かなりイライラすることになっちゃう。どうバランスをとるかに、もう試行錯誤の連続でした。2人目が産まれてご飯も立って慌てて済ますような日々が続いた時、「1日たった30秒でいい。ただ黙って座っていたい。自分に戻りたい」という要求が切実に芽生えているのに気が付きました。ふと、「ヨーガをやろう!」と思って。
最初は子供を預かってもらうということに遠慮して、「子連れヨーガ」とかいうデパートのカルチャーセンターから始めました。久しぶりに身体を伸ばして気持ちイイ、なんてやっていると、隣で息子が積み木を倒してイタタタ……という調子(笑)。それでも、何も背負っていない贅沢な時間が嬉しかった。
子供がいる場合、日常から脱皮するには、ちょっと頑張ったら手に入るという着実なところからでいいと思うんです。いきなり難しいことを狙って周りを巻き込み、無駄な努力になってもつまらないでしょう。自分の要求が高まった極(きわ)を見逃さないようにして、とにかく一歩を踏み出す。後は、自分の分に応じたやり方で、だけど気持ちだけは反らさない。すると、閉塞していた状態が少しずつ変わり始めてくると思うんです。
このことは、もっと集中したいという思いと日常のバランスをどう取るか、焦らないで続けていくにはどうするかという、私自身のコツでもあるんですけど。
宮崎 かなりの忍耐力というか、長い目で見る許容力が必要ですね。私とかきっと失格だと思います。すぐパッパッとやれないと気が済まない。松田さんのそういう力が、身体感覚の世界を極めさせていくのではないでしょうか。
■身体観がガラガラと変わる
松田 2人目、3人目が産まれていく2年間は、私にとっても激動の時でした。3人目がオナカにできて2カ月の時、私の父が亡くなったんです。父が病院に入って、嗅覚に敏感な私の妹だけが“父は危ない”と主張し続けたんですが、お医者さんは、「この数値がでているから、もう絶対大丈夫。峠は越えました」と。その翌朝、父は死にました。こりゃ一体ナンダ? という感じで……人の命って、機械で測った数字と全く違ったナニカで生きているのではないかと思うきっかけになりました。
それに、子供が風邪をひいたり、ケガをしたり、それは自分が忙しくて気持ちが向いていない時に起こりやすい、となんとなく気付くようにもなっていて、ナニカありそうだナと。
そんな矢先に起きた、極め付きの出来事が、4歳になったばかりの息子の骨折。真ん中の娘が2歳5カ月、下の娘が生まれてまだ10カ月ぐらいだったのですが。泣き叫ぶ子供を抱いて救急病院に行ったら、「肘を複雑骨折しているから、入院できるよう小児病棟のある国立病院へ、すぐに救急車を回しましょう」と言われました。でも、腕を切開して骨をボルトでつないで、また切開するとなると3カ月はかかるらしい。これはヤバイ! つまり、息子の肘は治るだろう。だけど、3カ月もの入院に誰が充分に彼につきあえるのか。私は下の子たちの面倒で手一杯、夫は学校創りで多忙、実家に応援も頼めない。きっと息子の中には、別のものが発生するに違いない……と思ったみたいで。
宮崎 何か、わだかまりが残ると?
松田 ええ。治った肘を抱えた息子の暗い表情が思い浮かんで。モタモタしていると救急車がお迎えに来てくれちゃうから、とにかく咄嗟の判断で、裸のままの息子をバスタオルにくるんで、「大事なものを忘れました。わはは……」とか、なんだかんだ言ってタクシーに飛び乗りました。で、以前に本で見たことのある整体の道場へ駆けつけたんですが「骨をつなげた後の面倒はみられるが……」と言われ、またタクシーへ。困り果てて、フト運転手さんに尋ねたら、「年だから開業しているかどうか……」といいつつ柔道整復師の先生を紹介してくれました。
そのジイサマは、名前も「尾崎金太郎」と言って、ドラマ『赤ひげ』の治療院みたいな、ひなびた日本家屋に住んでいました。ガラガラときしむ戸を横に開けると、「ハイハイ」と言って奥から出てきて「何を男の子がそんなに泣いているんだ?」と。そう言ううちに、骨折した腕を両手の平で包んでムニャムニャと指を滑らすように動かしている。
で、「もうこれでいいよ、当て木をしておこう」と。「エッ?!」って感じで仰天でしたね。腕も切らなきゃ、ギブスもない。おまけに、立ち上がった息子に「ここの力が抜けとるワイ」と言って、突然「エイッ!」とへそ下へ握りこぶしで気合いを入れました。あまりにビックリして、思わず私もシャンとしちゃって。ショックで蒼ざめていた息子の頬も、みるみるうちにピンクに戻りました。神業に触れたのか、狐につままれたのか……!?
“私がいままで思ってきた身体って一体ナンダったんだろう。”肘の当て棒1本で、平気な顔して私たちとの生活を続けている息子を見るたびに、そう思いましたね。「腫れは自然のギブスだから」と言われるとおりで、無理せず、動かせる範囲で腕を動かしている様子からは、息子の身体が徐々にリハビリを始めているのも分かって、人の身体って凄いなぁと。
それと同時に、咄嗟の判断とはいえ入院をしない選択をしたのは私だから、後で困らないよう、自分のできることは精一杯しよう、整体を学ぼうと思いました。でも、“小さな子連れではまだ当分無理かな”と諦め半分でいたところ、友人が道場にかけあってくれて、「先生を派遣してください。あとは、こちらで何とかしますから」と話を進めちゃった。ありがたかったです。自主保育で出会っていた近所のお母さんたちも、「なんか面白そう」と保育を分担してくれて、まずは公民館で、地元での勉強会がスタートしていったんですね。
■外を見るのか、内を観るのか
宮崎 私にも、母の大病に際して、5年生存率1000分の1と宣告され、方々で西洋医学のお医者さんとケンカして、あまたある民間療法と言われるものの中から、自分がピンとくるものを選んで実行した経験があります。それから10年経ちますが、おかげさまで、母は亡くなるどころか病気をする前より元気に暮らしています。だから、松田さんのそういうお話にまったく違和感がありませんよ。
松田 自分で何とかならないかと思って、常識の抜け道を真剣に探していたら出会っちゃったみたいな。せめて、風邪をひいた時とか、すぐ薬に頼って症状を抑え込もうとせずに、自分の身体は何を要求しているんだろう、何を変えたいんだろうと、ジィーッとその経過を追ってみるぐらいの余裕があると、身体の捉え方も変わってくると思うんですけどね。あれからもう十数年経ちますが、ヨーガや整体の先生たちは、そのつど私にとって必要だったことを伝えてくれました。今はその自分の内側にある五感ではない感覚に、どう出会い、どう味わい、どう生かすのかにやっと進んできたところです。
宮崎 五感にない感覚ってあると思います。私も無意識に使ってるな、という気もします。でも、私も松田さんに半年ほど教えていただいていますが、身体の内側を観るって、本当に難しいですね。それだけに興味は尽きないですが。
松田 身体の内側の感覚の世界って、信じられないほど深いんですよ。きっと宇宙の果てのように、どこまでいってもたどり着けないんじゃないか、と思う。“ここまで分かったらオシマイ”ということがない。
私だって、どんなに教える立場になったって、自分が追求していかないと、そこのレベル止まりになってしまう。だからこそ、すごく面白いんです。もっと、もっとと求めたくなる。その世界に入り込む体験を重ねることが、本質的なものに近づいているという実感につながるから。深遠かつ、でもそれは、日常の中で誰でも本当は無意識にやっていることでもあるんですよ。たとえば、スーパーの買い物袋を下げている時、袋の中身にキャベツや大根が入って重たいなと思う。重たいから、じゃあどう持とうか。指先で握る、手首に引っかける、曲げた肘にかける、思いきって肩まで上げちゃう。全部、重さは変わりますよね。物理的な重さは変わっていないのに、重さの感覚は変わる。重たい物は軽く持つことができるんです。
ところが、私たちは自分のクセで、いつもの場所に持ってしまう。そして袋の中身を考えて「重たい、重たい」と連発する。身体と仲良く付き合うためには、まず、いつのも場所がどこなのか、自分のクセに気付いていくことから始まるんですね。それから、その日の自分と荷物において、どこで持つと程良い関係になるのか探ってみる。指で持つなら、どの指に気持ちを向けたら軽く感じるのか、どの指で持つと逆に重たくなってしまうのか、その指は身体のどことつながりがありそうなのか。そして、その指を観ている私は誰なのか……。もう、観ているのは目玉ではないでしょう?
すると、日本の文化にも「重たいものは軽く持つ」「軽いものは重たく持つ」という工夫があちこちにされていることにも気付いてくる。外側の形だけ見ていても分からなかったことが、自分の内側に眼を向けることで、型に潜む感覚に出会える。または、その感覚に添って発生した動きにのっていった時には、美しい型になるという不思議さもある。つまり、それは必然としてのフォームだったと。否応なく、日本人の血が流れている身体を持つと、その独特の身体感覚が育んだ日本の文化、型と共にある自然観って、スゴイなと思う。
実は、そうやって自分の眼を深めていくことが、知識に頼らない自分なりの審美眼を高めることにも、なるんじゃないかと思うんです。
宮崎 日本人って“世間様”を奉る人種だと言われたりしますが、松田さんのお話を聞くと、本質的には決してそうとばかりは言えない。それは日本人の私にとっても、すごくうれしい発見です。
松田 自分の自然を尊ぶ姿勢が、相手に対しても嗜みの眼を失わせないのかもしれませんね。
■身体は人生と共にある
松田 子供を妊娠してからの16年間は、図らずも、自分の身体からの声をどれだけ素直に聴けるか、感覚を磨いて、その動きにのれるか、そんな挑戦だったようにも思います。幸いなことに、編集の仕事ができたので、専門の機関誌や学会誌に携わりながら勉強できたという恵まれた立場にもありました。
自分の身体は生きている。この生命と共に。切り刻みのできる物体としてではなく、“動いているモノ、変化しているモノ”として認めていく発想に出会っていなかったら、仕事も子育ても目一杯な状況を、どこかで面白がりながら切り抜けてはこられなかったでしょう。身体は、どんな切り口でも、自分が自分で認めた分だけ答えを返してくれます。その時々に応じた思いがけないプレゼントにも、ずいぶん助けられて、続けてくることができました。
最初は、何だかよく分かんないのにゲンキになっちゃう。身体の見た目は変わっていないのに、首や肩が張っていたのが気にならなくなって、終わると、階段を上る足が軽くなっている。何かスウーッとして身体がまとまる心地よさみたいなものを体験してくると、今度は自分でどうやったら、それに近づけるのかなぁと工夫したくなる。すると、見える形ばかり追っていても、その感覚はつかめないんですね。見かけは同じでも中身はまるっきり違うことをやっている、ということがあるわけです。
息子の肘でお世話になった金太郎ジイサマのような、達人、名人の方は、到底、凡人では理解できない微細な感覚レベルで動いているようです。私たちが彼らの行為を見て「何かスゴイネッ!」ってある迫力を感じるのは、その中身のことだったんだ、と私自身、気付くのに何年もかかりました。
その辺りのことは、今度講談社から出版する、人と自然をつなぐBe-nature schoolという学校の講師仲間で書いた『自分という自然と出会う』という本に述べてあるのですが、とにかく、その中身の感覚に気付くと、その分だけ自分の眼が肥えていきます。さまざまな角度や層で、この人生が捉えられるようになっていきます。
子育て、家庭生活においても、だいぶ円滑に進むようになりました。小言ひとつ言うのだって、どのタイミングで、どの程度に、どの間合いで言えば、その子の内側に響くのか、自分で気付いていってくれるのか。怒って怒鳴ってばかりでは、ますます声を荒げるしか方法はなくなります。そんなの疲れちゃいますよねェ(笑)。
たとえば、急いで帰ってきて、夕食の準備に取りかかりつつ「宿題やった?」と聞いた時、我が家では部屋のあちこちから「ヤッタア!」「ヤッテナイ」「知らなあい」と、いろんな返事が返ってきます。誰から今日の様子を聞こうか。どのようにしたら、お互いに満足ができるのだろうか、と。身体を通しての集注がどういうものか分かる以前は、 「早く夕飯作らなくちゃ」と頭がいっぱいのまま、子供に向かったんですけどね、全然通じないですよ、それじゃあ。
宮崎 その状態だと、どんな時間でも何かできない自分がいるわけでしょう。
1つのことに集中してやれば、そのことに100パーセント時間は使える。満足感も変わってくるでしょうね。
松田 ええ、自分が今、何に集注しているのか、子供なのか、仕事なのか。どんなに短い時間でも、何に全身でかかわるかによって、私の集注形態は違うわけですよね。ならば、いろんな自分になって、その時々を思い切り味わえばいいじゃないと。開き直っちゃった方がいい。そのものに向き合えるのは今しかない、と。時間の流れが、今、今、今積み重ねになっていく。その覚悟ができると、対峙している関係性の中から、その人の奥にあったものがキラリと立ち上がってくる一瞬がある。実は、これこそが、自分は自分、相手は相手、でもお互いに感応しあう関係性、良い場が創れた時の醍醐味でもあるんですけど。それに出会えた時は嬉しいですよね。やはり、何かと出会うのって一期一会なんじゃないか……。
身体を観るということが日常になると、自分自身の中にも、たえず変化している波みたいなものがあるのが分かります。女性の場合、生理の波ってすごく自分が分かりますよね。排卵、生理前後では、ずいぶん感情や仕事への姿勢、食べ物の好みなんかが変わってくる。それにまず気付く。そして、サーファーみたいにその波をよむ、その波に乗る。そうすると、もっとラクに自分と付き合うことができるんじゃないかなぁ。そうやって、変わり続けている自分に出会うと、“本当の自分、いつもの自分なんてどこにいるのか”とも思えてくる(笑)。でも、それを楽しんで観ている自分はいるんですよ。
自分の内側に眼を向けつつ出会う外の世界も、自分の裡(うち)にある落ち着いた静寂なひとときも、みんな現実であることが分かると、自分自身に気付いた分だけ、きっと宇宙を理解できるんだろうなぁと思います。
今の私にたどり着くまでは、いろんなことが伏線になっていて、しかも重層的に同時進行していて、さらにそこにいろんな人間が絡んでくる。1人ひとりが、勝手にアメーバーのように増殖したり、縮んだり蠢いていて、その触手が触れ合ったり、離れたり……。影響しあいながらも、その動きすら変化していく。
人生って、きっと誰もが自分にとっての自然な流れになっているんじゃないか。ならば自分の観方ひとつで、もっと豊かに実り多く、酸いも辛いも味わえないか、せっかく生まれてきたんだから堪能できないか。それが私にとって今は“身体”という世界を通して伝えたいことなのかもしれません。“この人生”の時間は限られているんですから。