きゃりあ・ぷれす

おかげさまで300号
「仕事と社会のこれからを考える2009」 宮崎郁子
298号でご登場いただいた堀内さんから、「もうすぐ300号ですね!」というメールをいただいて、
大変うれしく、過去の200号、100号の内容やその他のバックナンバーを読み返してみたりしました。
ここのところ、読者の方々のコラムが大変充実していますし、
編集メンバーもガンバってくれているので、自分で原稿を書くことがほとんどなくなっていました。
実をいうと、どうしても私が書くと、妙に長文になったり硬くなったりしてしまうので、
ちょっと慎んでいたところもあります。
でも、300号ということもあり、また今ほど「仕事と社会のこれから」が
重要なテーマになっている時もないように思うので、
しばらくぶりに私のつたない長文を掲載することをお許しいただければと思います。
よろしければ、ご意見、ご感想などもお寄せください。お待ちしています。
◆なぜ日本人は、こんなに「不幸」や「不安」になったのか
街を歩いていて、今ほど全体に「不幸」や「不安」が充満していると感じる時代は、
私の知る限りなかったように思います。私が知っている街とは何か全然違うのです。
どこか別の国を歩いているようです。なぜなのでしょう。
原因は、グローバルエコノミズムの蔓延とその尻馬に乗った日本の構造改革とやらの推進。
そしてその破綻なのだと私は思います。
誰もかれもが「リスク」と「リターン」というモノサシを背負わされているからではないでしょうか?
全員が、否応なく「自由」と「自己責任」という荒海に投げ込まれてしまったのです。
そして、十分な「リターン」がない人や、見せかけの「自由」を与えられた人々には
「リスク」と「自己責任」だけが押し付けられてしまっています。
◆誰も「幸せ」にしない格差社会
格差社会といわれます。では、その上部にいるといわれる人々は、はたして「幸せ」なのでしょうか?
私には、どうもそれも違うような気がします。
今、高給を取っている人も、資産をもっている人も、私は今決して幸せではないと思います。
ハイリターンを得ている人は、日常的なハイリスクの「不安」と過度な競争によるストレスで、心や身体を病んでいます。
資産を持っている人、今はまだそれなりの年金を得ている人も、
いつまでその状態でいられるのかという不安にさいなまれています。
まあ、それはハイリスク/ハイリターンということで仕方ないといえるかもしれません。

でも私が思うに、上部にいるといわれる人々が決して幸せだと感じられない一番の理由は、
仮にどんなに自分がお金をもっていても、
街に「不幸」や「不安」や「絶望」や「恨み」や「暴力」や「犯罪」が充満していたら幸せではない、
という日本人の精神性だと思います。
それは、決してグローバリズムに侵されて失ってはならない、とても大切な精神性です。
私たちは、高いリスクをとって競争に打ち勝ったんだから、
負けた奴は実力がなかったか怠けていたのであって、
その報いを受けても当然だ、とは決して思えないのです。
そういう日本人にとって格差社会は、誰をも幸せにしない社会なのです。
◆「ハイリスク/ハイリターン」「ローリスク/ローリターン」という大ウソ……
いくら格差社会の上部の人だって幸せじゃないといっても、もちろんもっと圧倒的に「不幸」なのは、
職を失っても何の安全網もない非正規労働者たちです。
彼らは働いている時からローリターンなのにハイリスクでした。
「ハイリスク/ハイリターン」「ローリスク/ローリターン」なんていうのは実はまやかし、大ウソなのです。

派遣法が改正(改悪)された小泉政権まっただ中の2004年あたりから本格化した、
弱者にハイリスクを押し付けて大企業などがリスクヘッジするやり方は、
個人レベルでいえば全員がハイリスク=危険・不安で、ごく一部のハイリターンやミディアムリターンの人と、
大多数のローリターンやノーリターンの人々を生み出しました。
そんな社会が幸せなはずがありません。
長い間日本にあったはずの「安心・安全」は、どこにもありません。
グローバライズ、構造改革というかけ声のもとに、日本の「安心・安全」は、いとも簡単に棄てられてしまったのです。
◆ほんの10年か15年前の日本社会は全然違っていた
「リスク」と「リターン」という言葉が一般化したのはいつくらいからでしょうか。
おそらくグローバリゼーションの波が押し寄せ充満してきた、
今からほんの10年か15年前のことではないでしょうか。
それ以前は全然違っていました。そのあたりまでの日本社会の常識はこんなものでした。

大多数の人が何らか社会に役割をもっていて、それほど物質的に豊かでないにしろ、
また必ずしも好きな仕事をしていないにしろ、そして、それ程の自由がないにしろ、
「リスク」といったことを意識せずに暮らすことができていました。
日々役割をこなせば暮らしていけた。そして、日本人の気質としてよりよいものを作りたい、
より周りの人や社会に役立ちたいという思いから、コツコツ努力をして、
それが「安心・安全」でいながら怠惰や停滞に流れない、住みやすく活力のある社会をつくっていました。

その中のごく一部に、一発当てたい、立身出世したいという人がいて、
不自由だけど穏やかな世界を自分から出て、苦労したり、報われたり、挫折したりしていました。
当時そういう人々は、会社を起こす人などを比喩的に呼ぶ場合も含め「山師」とか「相場師」などと呼ばれ、
一般の人々からは危険人物視される存在でした。
そういうごく一部の人々だけが「リスク」と「リターン」の世界にいればよかったのです。
昔も、そういう人は一夜にして大金を手にしたり、
逆に一文無しになって借金取りから追われ夜逃げしたりしていましたし、
成功と破産を何度も繰り返してもコリずにまた挑戦するバイタリティと楽天ぶりをもつ特殊な人々でした。

また、別のタイプの「変わり者」「外れ者」には、「芸人」や「表現者」や「発明家」や「活動家」などがいました。
この人々も、不自由だけど穏やかな世界を自分から出て、苦労したり、報われたり、挫折したりします。
ですのでハイリスクなのですが、いわゆる金銭的、物質的リターンへの頓着は
希薄なところが「山師」「相場師」タイプとは違っている存在でした。
(かく言う私を含め、周辺のデザインやクリエイティブに関わる人々は、程度の違いこそあれ、このタイプの人間だと思います。)

さて、おおざっぱにこれらの3つのタイプは、感覚的には次のような割合だ ったように思います。

●リスクなど意識しないですむ世界にいるけれど、自由や自己表現には制限があり、
大金とは縁がない、という人が70%—————まじめにやっていればノーリスク/ローリターン
(その70%の人々の世界から、何らかの理由で落ちこぼれてしまった人々、10%)

●「山師」「相場師」タイプが10%—————ハイリスク/ハイリターンorノーリターンorマイナスリターン

●「芸人」「表現者」タイプが10%—————ハイリスク/金銭的、物質的リターンへの頓着が希薄
◆「山師」や「相場師」のマインドは決してスタンダードであってはならない…
それが今や、全員が「山師」や「相場師」になれと言われているような状況です。
そして、それに対応できない人は落ちこぼれとなり、その数がどんどん増加しているのです。
これでは、日本人の精神性からいって「安心・安全」な社会になるはずがありません。
「山師」といえば、西部開拓時代のゴールドラッシュ、
「相場師」といえば1930年代のウォール街、現代のヘッジファンド。
どんなに科学や工学を駆使しているといってもマインドは同じです。
どちらもまぎれもなくアメリカのフロンティアスピリットのDNAに基づくマインドで、
狭い島国で、ささやかなもの、小さきものに心をよせる日本人の精神性にはフィットしません。
環境の問題が顕在化しているこの時代、
しかも破綻して化けの皮がはがれてしまっているフロンティアスピリットを、
わざわざ会得する必要もさらさらありません。

むしろ、こんな「山師」や「相場師」のマインドをスタンダードにしてはならないのです。
「山師」や「相場師」や、「芸人」「表現者」などが「変わり者」「外れ者」であってこそ、日本は健全な社会なのです。
◆グローバルスタンダードなどという言葉に惑わされず、もういちど「幸せ」な日本を全員が考える時
とはいえ、昔はよかったとか、昔に戻ろうと言っている訳ではありません。
そう言ったところで、所詮無理なことですし、人を幸せにする変革、改革は常に必要です。
昔に戻るということではなく、これからどのような社会を目指したらいいのかを、
自分の頭で考えるべき大きなポイントにきていると思うのです。

私は、形は以前と異なりながらも、やはり何らか社会に役割をもっていて、
それほど物質的に豊かでないにしろ、また必ずしも好きな仕事をしていないにしろ、
そして、それ程の自由がないにしろ、「リスク」といったことを意識せずに
暮らすことができる人々が70%くらいは存在し、よりよいものを作りたい、
より周りの人や社会に役立ちたいという思いから、コツコツ努力をしていける社会を目指すべきだと思います。

キリスト教的なとらえ方では、「労働」は人間の原罪によって神から与えられた「罰」として受け入れなければならないものです。
けれども私たちのDNAには、まったく逆の感覚が存在します。
「働く」ということは、社会に参加すること、人の役に立つこと、
社会から役割を得て、認められること、という感覚です。
これをもっと大切にした社会をつくり、世界に誇れるものとして発信していくべきでしょう。

派遣切りにあった労働者、仕事が激減した中小企業者の悲しみは、金銭的なものはもちろんですが、
「自分が社会からいらないものとされた」という感覚の強い痛みなのだと思います。

過剰な競争が、社会を良くするとも思えません。
効率がよく、価格破壊を起こせる規模とシステムをもつ大資本企業が、
個人商店や小規模企業、小規模農家をなぎ倒していくような画一化(スタンダード化)は、
働く人々にとっても、生活者にとっても、決して幸せをもたらすとは思えません。
「安い」「便利」の追求が必ずしも「幸せ」をもたらさないことは、すでに立証済みなのではないでしょうか。

もういちど、どんな社会が幸せか、「しかたがない」という既製概念を取っ払って
それぞれの個人が自分の頭で考えてみる時なのではないでしょうか。
あまり良くない社会を実感できる今こそ、そのチャンスなのだと思います。
◆「資本主義はなぜ自壊したのか」「誰も知らない世界と日本のまちがい」
ここで、2冊の本をご紹介したいと思います。
ここまで書いてきた内容が、あまりに感覚的に過ぎるので、もう少し実証的、分析的な「押さえ」が必要かもしれません。

1冊目は、構造改革の急先鋒であった著者が懺悔を込めて
自らの「転向」の理由を明らかにした中谷巌著「資本主義はなぜ自壊したのか」

2冊目は、「日本流」たとえば「稲代」という考え方によって、
外来のものを直播きしないで稲代に植えてしばらく育てるような方法を結びで提唱している
松岡正剛著「誰も知らない世界と日本のまちがい」
資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言  中谷 巌 (著) 誰も知らない 世界と日本のまちがい 自由と国家と資本主義 松岡 正剛 (著)


どちらもアマゾンのカスタマーレビューでは、あまりいい評価とはいえいないのですが、私は大変評価できる本だと思います。

まず、「資本主義はなぜ自壊したのか」について。
中谷氏については、やはり小泉政権につながる構造改革路線を押し進めた御用学者としてのイメージが強かったので、ほとんど関心がなく、氏の著書を読んだのは今回が始めてでした。
まずこの本を書店で手にして惹かれたのは、もともとグローバルエコノミズムや構造改革に異を唱えている側の人が書いたこの種のタイトルの本でなかったことです。
氏はもともとは構造改革の急先鋒であって、にもかかわらずこうした著書を書くに至ったことに、大いに興味をもちました。
私が7年くらい前から感覚的に抱いていたグローバリズムへの疑問や危惧の根拠を整理して書いてくれていると思います。
以下にその目次を記載します。

・さらば「グローバル資本主義」
・なぜ、私は「転向」したのか
・グローバル資本主義はなぜ格差を生むのか
・「悪魔の碾き臼」としての市場社会
・宗教国家、理念国家としてのアメリカ
・「一神教思想」はなぜ自然を破壊するのか
・今こそ、日本の「安心・安全」を世界に
・「日本」再生への提言
・今こそ「モンスター」に鎖を
◆グローバリズムの過ぎたる悪禍を阻む方法としての「稲代」という考え方
2冊目の「誰も知らない世界と日本のまちがい」について。
450ページ以上のかなり分厚い単行本です。近代から今日に至までの世界と日本の流れを大きくタテに追いながら、
同時代的に共通する話題や問題をヨコやナナメにつないで、
現状の世界や日本社会の状況が生み出された経緯を明らかにしようというものです。

かなり細部のことが書かれているので、正直なところスイスイと読み進められる本ではありません。
話題は多岐にわたり、著者のいつもながらの博識がほとばしっているのですが、
さまざまな事柄がからみ合って現状があり、それをある程度知った上でないと、これからのことは考えられないですし、
逆に言えば、常識や正義だと今思わされていること、たとえば「自由と国家と資本主義」が、
必ずしもそれほど昔からの常識でもなく正義でもない、ということを知るためには、とても役立つ本です。

最終章には、「日本の稲代をとりもどしたい」という見出しがあり、
クールな松岡正剛氏にしては、ちょっと熱い思いが感じられて、私は好きです。
「稲代」という方法を忘れてしまった外来種の直播きが、
今さまざまな社会的不安や危機を日本にもたらしているという指摘には、
グローバリズムとのつきあい方、間の取り方、日本への取り入れ方のヒントがあるように思います。


またしても長文になってしまいました。また、結論が出し切れないものにもなって、
中途半端な内容になってしまいました。お許しください。
最後までお読みおただき、ありがとうございました。みなさんは、どんな風にお考えですか?

堀内さんからコメント
132号・133号で取り上げていただきました、堀内 浩二と申します。「きゃりあ・ぷれす」もうすぐ300号、おめでとうございます! 二者択一的な選択肢しかないと思われる状況下でも、主体的に自分なりの答えを探す。わたしが「たくましく楽しく自分の人生を生きていらっしゃるな」と感じる方々には、共通してそのようなスタイルがありました。それをまとめたのが、新著『クリエイティブ・チョイス』です。 「きゃりあ・ぷれす」との出会いは、こういったテーマを突き詰めて考えてみようと決めたすぐ後に訪れました。実は、本の中で触れています。『創業期には、話すことで自分の物語を書き直せたと感じています。創業後最初にリリースしたサービスについて、あるいは創業の経緯について、何回かインタビューを受ける機会をいただいたのです。聞き上手なインタビュアーに導いていただいていろいろと話しているうちに、自分の道のりに意味を持たせることができてきた気がしています。』
この「インタビュー」のうちの一つが「きゃりあ・ぷれす」の特集企画「天職を探せ」であり、「聞き上手なインタビュアー」が、発行人の宮崎さんと当時コラボレーション編集スタッフであった木村麻紀さんにほかなりません。インタビューを受けたのは6年以上前ですが、あのときの2時間のことは、いまでもときどき思い出します。これでいこう、と思うきっかけをくれた2時間でした。 「きゃりあ・ぷれす」は当時すでに「仕事と社会のこれからを考える」というキャッチを掲げていました。これからも、読者の皆さんのよき羅針盤たり続けることを期待しています。

(堀内 浩二)