2015.4.27発行 vol.370
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発行人の気まぐれコラム 3

◇「外れ者」の危惧

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[「変わり者」がスタンダードの社会の幸福は続かない。]
前回の「気まぐれコラム」で、大上段にも「西欧近代」の限界などということを言ってしまいました。それは、資本主義も共産主義も包含したものです。結局はコインの裏表でしかないからです。

もちろん西欧近代は、私たちに多大な便利と楽チンを提供しました。でもそれは、ある所までで十分なものだったのです。そしてそれ以上は、過剰であり、決して人にとっても幸せにつがらない、長続きしないものだったのです。地球環境においても、社会の健全性においても。生物として、地球の一員としての分を逸脱しているからです。

また、「自由」というものを本当に楽しめるのは、実はごく一部の変わり者だけということが明らかになりつつあります。なぜ自由が必ずしも多くの人々を幸せにしないのか、についてはまた別の機会に。 実は、それらについて、過去の「きゃりあ・ぷれす」でも書いています。創刊300号に向けた「仕事と社会を考える2009」のコラムです。

http://www.pangea.jp/c-press/special/Starting300.html

「山師」や「相場師」や、「芸人」「表現者」「発明家」「プロ選手」などは「変わり者」「外れ者」、それゆえある種面白い者として存在は許される社会であってほしいとは思いますが、それがスタンダード、多数派、あるいは全員がそれを目指すような社会は、異常でしょう。せいぜいそういう「変わり者」の割合は2割くらいで十分だと思うのです。 けれども西欧近代は、画期的な発明・発見や、短兵急なあくなきイノベーションと競争を良しとする価値観です。そこで成果を出した者は、それなりに報われますが、それを遥かに超えて、それらにある程度のリスクを張って投資して、莫大な利益を上げた者が「勝ち」で、地道にコツコツ技を磨いたり、和気あいあいな場をつくったり、農・海産物と向き合ったりする人々を、つまらない者として切り捨てる社会です。

でも、そんな「変わり者」や「博打うち」ばかりの社会って平和で幸せなのでしょうか。 「普通」の人が多数派で、その人たちが安心感と生きがいを得られる社会が、安定した継続性のある社会のはずです。 それがどんな社会なのか、ということを今こそ考えなければならないというのが、私の矢も盾もたまらない思いです。

 

[「外れ者」の使命。]

私自身は、といえばきっと「変わり者」「外れ者」だと思います。そうでなければ、こんなタイソウな文章を平気で書いたりしないでしょう。それも始末に悪い確信犯。逆に言えば、そうしかできない人間です。

もともとはかなりのモダニストで、自由人です。小学生の頃は、鉄腕アトムやカムイ外伝が大好きで、高校1年くらいまでは漫画家になりたくて、「2001年宇宙の旅」がベストシネマで、高校2年の時には、「沖縄返還協定粉砕」のデモに行ったり、受験勉強をしないで大学という親を納得させる安住の場を手に入れるために美大にいき、6つの会社でキャリアアップとネットワークづくりをして、35才で起業しました。そして紆余曲折もありながら細々とですが、創立25年を迎えることができました。 まあ、勝手気まま、友人に言わせればいつも「あんたはいいよね」です。

そんな私でも、大きく価値観が変わった時がありました。
まずは21世紀になった時。何しろ「2001年宇宙の旅」好きだったので、10代20代の頃には特に、21世紀には何か特別なワクワクするイメージをもっていて、自分はもう47才になっているから、終わってるなという予感をもっていた訳ですが、いざ、その時になってみたら全くつまらない現実社会、そして自分自身は全然終わっていない、終わるどころか、これからダ!という状況になっていた訳です。
な〜んだ、こんなもんか、とガッカリしました。そして、近代というもののイメージが少しずつ変わっていったのです。

その頃、身体感覚講座の松田恵美子さんに出会い、旧暦美人プロジェクトにつながりました。また、多様な在来植物に注目する田瀬理夫さんにも出会い、ソメイヨシノに代表される江戸時代の染井村や安行村のことを知りました。どちらも江戸時代を見直すことにつながっています。

それから、2009年くらいから顕在化した300号コラムで書いたような不幸・不安社会の到来。さらに人類への天の啓示として起こってしまった3・11の大震災と原発欺瞞の露呈。やはりこのことが決定打として、私の西欧近代への不信感と、このままではダメだという思いは強くなってきています。

「外れ者」だからこそ、常識や成り行き任せを疑ってみることが使命だと感じます。「変わり者」「外れ者」だからこそ、そして近代社会の自由を思い切り活用させてもらった人間だからこそ、今声を大にして言わなければならないと思うのです。

西欧近代が限界だということを。そして今こそ、それに代わりうる価値観はどんなものか、ということを考える時ではないかということを。その時。少なくともこの日本列島に関しては、大変参考になるのが江戸時代ではないかと思います。それは決してその時代に戻るということではなく、ひとつのモデルとしてヒントを与えてくれるのではないかという直感です。

次号では、なぜ江戸時代が参考になるかについて、お伝えしたいと思います。

みなさんのご意見、ご感想などお待ちしております。


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2015年4月27日 『きゃりあ・ぷれす』発行人 宮崎郁子