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「天職を探せ」第17回 前編
OLから音楽講師・・・そしてベストセラー作家へ
天の「おぼしめし」を受けとめながら、自然体で生きてきた
夢みる夢子さんこと山下景子さん
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ひさかたの「天職を探せ」のコーナーです!気付いたら前回から1年以上経
っておりました。楽しみにされていた方、ごめんなさい。『きゃりあ・ぷれ
す』は「これは!」と思わないと動かないので、お許しください。その分、
自信をもってお届けいたします。
今回ご紹介するのは、現在ベストセラー作家として活躍中の夢みる夢子さん
こと山下景子さんです。「旧暦ダイアリー」を買ってくださった方からご本
を紹介され、その著者でいらした山下さんにダイアリーをお贈りしたのがき
っかけで、ご縁を得ることができました。
神戸在住の山下さんですが、ラジオ番組のご出演で、神戸から東京へいらし
ている間に、貴重なお時間をいただき、直接インタビューをさせていただき
ました。実際に初めて山下さんにお会いして、品のある美しい言葉を日々つ
づられている方らしく、上品でおっとり穏やかな、とても優しい方でした。
「KY(空気読めない)」など、日本語でも外国語でもないような言葉が増
えてきましたが、美しい日本語とその奥にある繊細さや温かい日本の心を伝
え、私たちに大事なものをほんわりと教えてくださる山下景子さんの著書は、
多くの人が求めていたものだったのでしょう。
初めて出版された「美人の日本語」は26万部のベストセラーとなりました。
山下さんはもともと音楽が好きで、作詞作曲を手がけるソングライターにな
ることを目指されていました。自分の夢実現へ向かってどのように進まれて、
そしてベストセラー作家になられたのかを、じっくりとお話ししていただき
ました。その中で、山下さんのありのままの自分と向き合う生き方を垣間見
ることができました。
【プロフィール】山下景子さん
兵庫県神戸生まれ。武庫川女子短期大学国文科卒。現在神戸市在住。
「北海道・北の賛歌コンクール」「愛知・名古屋マイソング」など。作詞作
曲で数々の賞を受賞。夢子というハンドルネームで、メールマガジン
「センスを磨き、幸せを呼ぶ〜夢の言の葉〜」を発行中。
(メールマガジンは、こちら↓からどうぞ)
http://archive.mag2.com/0000130676/index.html
著書に「美人の日本語」(幻冬舎)、「美人のいろは」(幻冬舎)、「美し
い暦のことば」(インデックス・コミュニケーションズ)、「しあわせの言
の葉」(宝島社)、「花の日本語」(幻冬舎)、「耳を澄ませば聴こえてく
る 音の日本語」(PHP研究所)がある。
今年3月には新刊「ほめことば練習帳」(幻冬舎新書版)が発売。
(詳細はこちら↓のサイトをご覧ください)
http://plaza.rakuten.co.jp/yumenokotonoha/
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●音楽教室の講師から著述業への転身
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―メールマガジン「〜センスを磨き、幸せを呼ぶ〜夢の言の葉」のサイトに
は、山下さんが「美人の日本語」(幻冬舎)を出版されるまでのお話が載っ
ていますよね。もともとはソングライターを目指されていたようですが、現
在の職業は著述業ということになるのでしょうか?
◆はい。昨年の5月までは、音楽教室の講師をしていました。そちらを辞め
てからは、本格的に著述業に専念しています。
―今はブログを個人で書く方が多く、それが発展して小説を出したり、世に
出たりする時代ですが、メールマガジンをきっかけに本の出版をされた山下
さんもその中の一人ということでしょうか?
◆もともと本を出すつもりはなく、もっと軽い気持ちでメールマガジンを始
めました。ブログを始められる方の多くも「ちょっとやってみようかな」と
いう気軽な気持ちだと思うのですが、そんな感じでした。その頃は、すでに
ブログもありましたが、まだメールマガジンが一番盛んな時期でした。
―メールマガジンは何年前からスタートしたのですか?
◆2004年5月からです。
メールマガジンが個人で出せると知らなかったのですが、自分が読んでいた
メールマガジンの中で、個人でしかも無料で配信できることを知って、それ
で自分も出してみようと思ったのです。
ただ、メールマガジンは文章だけですし、写真も載せたかったので、メール
マガジンと連動させてブログも同時に始めました。ブログはメールマガジン
の補足として、写真とこぼれ話を載せています。
メールマガジンhttp://archive.mag2.com/0000130676/index.html
ブログhttp://plaza.rakuten.co.jp/yumenokotonoha/
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●音楽も古典も好きだけど、
今しかできないソフトボール部を選んだ高校時代
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―さて、今日はそこに至るまでのお話を伺いたいと思います。
学生時代はどのように過ごされ、またご自身の将来をどのようにイメージさ
れていましたか?
◆本当に幸せなことに、好きな事ばかりさせてもらっていました。子どもの
頃からずっとピアノを習い、早くから自己流で作詞作曲をしてはストックし
ていました。それと本を読むのが好きで、特に古典が大好きでした。
将来は音大か国文学のどちらかに進むと考えていました。
高校へ入学したころ、野球が好きになって「やりたい!」と思い、ソフトボ
ール部に入ろうとして、習っていたピアノの先生に話したら、部活に入るこ
とを止められました。
「音大行きたいなら、そんなことしている場合ではない。音大あきらめるな
らいいけど。」と。
私にしてみれば、ソフトボールは今しかできないですし、音楽は一生できる
から、ピアノをお休みすることにしました。それで、高校時代はソフトボー
ルばっかりやりましたので、音大への進学の選択はなくなりました。
そんな高校時代も、作詞作曲はずっと続けていました。世間知らずだったの
で、もっと世の中を知り、社会勉強しなくては自分の詩はよくならないと考
えて、すぐに就職したほうがいいと思いました。ただ、学校が進学校でした
ので、周囲は進学することが当たり前という風潮でした。
私は浮世離れしていましたので、親と先生との進路についての三者面談の時
に、初めて就職したいと言ったら笑われました。「就職する人は少ないけど、
就職する人はもう決まっていますよ。今からだと、いいところは残っていま
せんよ。」と言われました。そのいいところという意味もよくわからず、
「それなら短大に行きます。」と答えました。
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●やはり作詞作曲だけは続けていた短大時代
そして応募作品が4回も入選したOL時代
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―神戸の短大に進まれたんですか?
◆はい。学校はずっと神戸でした。専攻した国文学はとても楽しく学ぶこと
ができましが、仕事に結びつけようとは考えませんでした。でも将来のため
に資格をとったほうがいいと思い、教職は取りました。学校の先生になるつ
もりはあまりなかったんですけどね。
その間も作詞作曲だけはずっと続けていましたね。
ピアノもまた始めましたが、音大に進学していないので、ピアノの先生には
なれず、卒業後は一般の会社に就職しました。
その時点では、普通に就職して、普通に結婚して、趣味で作詞作曲など音楽
を楽しみながら、普通の人生を送るぐらいのイメージしかありませんでした
ね。
―音楽はあくまで趣味として作詞作曲できればいいと思っていたということ
ですね。
◆そうですね。プロになれたら嬉しいなぁ、レコードになったらいいなと思
うくらいでした。
私は、向き不向きに関係なくどこでもうまくやっていけるタイプで、どんな
職場でも嫌な思いをすることなんてないと思っていました。けれど、入社し
て「アレ?」「自分の居場所じゃない、こんなはずじゃなかった。」と思っ
たのです。
最初の部署は総務部で、1ヶ月もしたら仕事は覚えてしまい、自分も周りの
人々も毎日毎日同じようなことを繰り返して、淡々と過ごしているようで、
自分の成長が止まってしまう気がしてしまったのです。
それで、ますます自分の作詞作曲に力を入れるようになりました。
当時、NHKの「あなたのメロディー」という番組があって、自分が作詞作
曲した作品を応募したらなんと選ばれました。
―どなたが歌ったのですか?
◆一番初めは、くわえともこさんに歌っていただきました。当時新人賞をと
った方です。
―そうですか。その辺で大きな成果が出たのですね。
◆はい。年間コンクールにも選ばれ、大きなLPの中にも入れていただきま
した。
―そこでレコード化というのも実現できたのですね。
◆そうなんです。この時に、これはいけるかもしれない、この道で頑張りた
いと強く思うようになりました。今までより一層熱心に、積極的に作詞作曲
に取り組むようになりました。
―「あなたのメロディー」は全部で何回入選したのですか?
◆曲にすると4曲です。番組では、作った曲が選ばれると残っていきます。
その曲が最後まで残って上までいくと終わるので、また次の曲を応募して、
また選ばれてと・・・
―それが4回ということですね。4回もすごいですね、常連ですよね。
◆石川さゆりさんはじめ、いろんな方に歌っていただきました。その頃は、
続けていればそのうちに仕事の依頼がくるのではと思っていましたが、番組
が終わったらそのままで・・・。
―4回入選しても、やはり業界からアプローチはなかったのですか?
◆はい。その他にもいろいろ応募するものはないかと探して、見つけては作
って出していました。素人のコンクールに入選したり、賞をもらったりはす
るものの、それで終わってしまい、その先に続いていかないのです。
どうしたらいいかなと考えて、もっと自分から積極的にいかなきゃいけない
と思い、デモテープを作って、東京のレコード会社に売り込みに行きました。
社長さんに会っていただけましたが、「これからもどんどんできたら送って
ください」と言われるだけで、結局連絡は来ませんでした。
そうこうしながら、お勤めもしていました。ただ、会社がどうしても嫌にな
っていくので、一般の事務職を転々としていました、仕方なく働いたという
感じでしたね。
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●音楽教室の講師は天職だった!
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◆作詞作曲でプロになるのはなかなか難しいなと感じ始めたときに、ふと音
楽の先生になろうかと思いました。小さい時からずっと音楽をやってきたの
だし、好きだし・・・。一年発起してそのための勉強を本格的に開始しまし
た。そして音楽教室の講師に転身することができたのです。
―それは卒業してから何年くらい経ったときですか?
◆卒業してから10年後です。
―10年はひとつの区切りになりましたか?
◆意識していたわけではないですが、それくらいの年月は必要だったのでし
ょうね。ブランクがあったので、ピアノは難しいと思い、エレクトーン、電
子オルガンを習い始めました。ブランクは思ったより大きくて、合格するの
に習い始めてから5年かかりました。
―ということは、就職して5年後に習い始めて、その5年後に音楽の先生に
なったのですね。
◆はい。お勤めしながら習いましたので、なかなか練習時間もとれなくて。
―「あなたのメロディー」に4回入選したタイミングはその頃ですか?
◆いいえ、4回入選したあとにエレクトーンを習い始めました。
―時間の流れまとめると、就職してすぐに「あなたのメロディー」に入選、
しかし、なかなかプロにはなれず、OLをずっと続けるわけにもいかないの
で、自分のやりたいことのひとつである音楽講師になるため、5年かけて勉
強して、お勤めしてから10年後に、音楽講師になれたということですか?
◆はい。会社員よりは音楽講師のほうが向いているのではないかと思いまし
た。実際は想像以上でした。初めて小さい子供たちとグループレッスンをし
た時に、「これは天職だ!」と思いましたね。
―実際なってみて、これは天職だったと感じたわけですね。
◆こんな世界があったんだと思いました。当時のその音楽教室は、子供たち
の感性を育てることに重点を置いていて、楽譜を読むこと、上手に演奏する
ことは二の次でした。私にはぴったりの方針でした。
子供たちと歌を歌ったり、イメージを膨らませたり、自分も子供たちも楽し
んで教え、学ぶことができたように思います。子供たちの顔を見ていると、
本当にここに来てよかったと思いました。
◆けれど、目に見えることばかり重視する親御さんが増えてきたようで、音
楽教室はその後方向転換しました。忙しい中で最初は気付きませんでしたが、
だんだんとギャップを感じるようになっていきました。
音楽教室の講師は発表会が多く、自分の練習もあって忙しいのです。自分の
作詞作曲もしなくなり、講師だけで精一杯でしたね。
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●阪神淡路大震災?!で出てきた昔のノートがきっかけ
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◆講師を続けて十数年してギャップを感じ始めた頃に、阪神淡路大震災が起
きました。西宮市で一人暮らしをしていましたが、震災でアパートが全壊し
ました。それで神戸の実家に戻ることにしました。
その時、このまま音楽の講師でいいのかどうかと考えるようになったんです
ね。その頃、同じ音楽の講師をしていた知り合いの方にプロデューサーを紹
介してもらい、再び作詞作曲をするようになりました。でも、その時も芽は
でませんでしたね。
でも、また動き出したんですよ。このままでいいのかな。何かをしたいなと。
どっかに何かを探すような気持ちがありました。
震災の時に、たまたま作詞作曲のためにきれいな言葉、好きな言葉を書き溜
めた昔のノートが出てきました。後にメールマガジンを出すきっかけになっ
たノートです。
―震災ではお怪我はされませんでしたか?
◆怪我はなかったです。前日、京都に遊びに行って、その日は疲れて部屋の
隅っこのこたつで寝て、気付いたら朝でした。いつものところで寝ていたら
危なかったです。ちょうど柱と柱の間で守られました。
ほんのちょっとしたことが明暗を分けたんですね。地震が起きたときは、下
から突き上げられるような感じで、地震だとは思いませんでした。
―ノートは実家にあったのですか?
◆いえ、自分のアパートでした。震災で全壊したアパートの部屋から、荷物
を運びだしときに、書物の中に紛れ込んでいたノートが出てきました。
―震災によるトラウマはなかったですか?
◆アパートが壊れたと思ったその瞬間は、もう死ぬと思いました。すごく気
分が悪くなって、血が引いていくようでした。キャーって叫びましたが、シ
ーンとしているんですよ。「あぁ、一人で死んでいくんだ」と思いました。
そしたら、何かがスーッと下がって、丹田(たんでん)ってありますよね。
おへその下辺りで止まったんです。肝が据わるってこういうことかなと。
そこから落ち着いて、怖いと思うことはなくなりました。
―それを境に、なんとなく自分が変わったようなところはありますか?
◆「死」はいつか来るのではなくて、いつ訪れてもおかしくないものだとわ
かりました。試験で問題を解いていて、もうちょっとと思っていても、「は
い、そこまで」と言われたら鉛筆をおかないといけないみたいに。「ここま
で!」とある日、突然言われるものだと思うようになりました。
―いつ死んでいい覚悟というか、死が突然訪れてもいいような生き方をしよ
うということでしょうか?それは、精神的な部分で今の仕事に影響しました
か?
◆はい。直接ではなくてもやはり影響はあると思います。今、自分にできる
ことをしようという気持ちはすごく強くなったので、メールマガジンにして
も、踏み切れたのは、その影響かもしれません。
(次号後編に続く)